幕末の英雄、西郷隆盛の手紙が100年ぶりに発見
3月22日、滋賀県は琵琶湖文化館に預けられた古い資料の中から、幕末から明治時代にかけて活躍した西郷隆盛の直筆手紙が見つかったと発表しました。
この手紙は西郷自身が書いたもので、縦が15.8cm、横が4.75mになり、とても長い巻紙に書かれていました。
手紙の内容は以前から知られていましたが、その実物がなんと約100年ぶりに発見されたのです。
明治初期の国内情勢を伝える手紙
今回見つかった手紙は、1872年(明治5年)に西郷が大久保利通へ書いたものです。
当時の西郷は政府責任者として日本国内に残り、大久保は岩倉使節団のメンバーとしてアメリカに滞在していました。
この手紙を通じて、西郷は大久保に国内の状況を報告しています。手紙には宛名や書かれた年は記されていませんでしたが、日付と西郷の署名から、1872年に書かれたものだと分かりました。
見つかった手紙の中に、大久保利通の肖像写真について面白い言及があります。
西郷は「貴兄の写真はいかにも醜体(あなたの写真はとてもみっともない)」と書いているのです。
西郷の写真嫌いは広く知られていて、この言葉は代表的なエピソードとしてよく引用されています。
西郷の手紙は、滋賀県で初めて選挙で選ばれた知事である服部岩吉に関係する人物が、琵琶湖文化館に預けた古い資料の中から見つかりました。
さらに西郷隆盛の弟である従道が書いた「これは間違いなく本物だ」という鑑定書、また京都市の政治家・坪田光蔵が服部岩吉宛に送った手紙も一緒に発見されました。これらの資料は、西郷の直筆手紙であることを裏付ける重要な証拠となります。
この貴重な手紙は、滋賀県庁新館3階の県公文書館で、2023年5月27日から9月26日まで、特別に展示される予定です。
西郷と決別した大久保
西郷隆盛と大久保利通は、ともに薩摩藩出身で、幕末から明治初期にかけて日本の近代化を二人三脚で牽引する中心人物でした。
しかし西郷は、大久保へ手紙を書いた1年後(1873年)、明治政府(新政府)を下野しています。西郷が新政府を下野した理由は、主に「征韓論」をめぐる対立にあります。
征韓論とは、鎖国中の朝鮮を武力で開国させようという考えで、西郷や板垣退助らが主張しています。しかし大久保利通や岩倉具視らは、朝鮮の開国よりも日本国内の近代化を優先すべきだと考え、征韓論に反対しました。
論争の結果、征韓論は排除され、国内の近代化を優先する結論に至りました。
また明治6年(1873年)に、朝鮮政府が日本の国書を拒絶し、日本人居留民の安全が脅かされているという報告を受け、政府の裁決を求めた上野景範の議案に対して、西郷は自らが大使となって対話を試みることを提案しました。
西郷は武力ではなく、誠意をもって朝鮮との修好条約締結を目指していましたが、欧米視察から帰国した岩倉具視や大久保らは、西郷の訪朝を阻止しました。
西郷は政府の方針に失望し、参議・陸軍大将・近衛都督の職を辞し、位階の返上も申し出ましたが、陸軍大将と位階については許されませんでした。
この政変は「明治六年政変」と呼ばれ、西郷と大久保は決別しました。
西郷を慕う政治家・軍人・官僚が600人余りが辞任する事態となり、西郷は新政府を去ることになりました。
そして西南戦争へ
鹿児島に帰郷した西郷は私学校を設立し、士族の教育にあたりました。この時期、西郷は政府の政策に不平を持つ士族たちの中心人物となります。
明治9年(1876年)には、廃刀令や金禄公債証書発行条例などの政策により士族の不満が高まり、西日本で士族の反乱が相次ぎます。
明治10年(1877年)、西郷は明治政府への不満を募らせた薩摩の士族らを率いて挙兵。
西郷を盟主とする武装反乱である「西南戦争」が始まりました。
熊本城を中心に新政府軍との間で激戦を繰り広げた西南戦争は「日本最後の内戦である」と言われています。
戦争は新政府軍によって鎮圧され、西郷隆盛は自決しました。
勝海舟に仲介を依頼した大久保
西南戦争が始まると、大久保は勝海舟に西郷との仲介を依頼しています。
やはり大久保も同郷の西郷を失いたくなかったのです。
勝は仲介の条件として、驚くべき条件を提示します。
大久保に新政府を辞めるよう提案したのです。しかし交渉は失敗に終わりました。
勝にとって西郷は、江戸無血開城を実現できた恩人でもあります。また西郷がいなければ、明治維新後における勝の地位も保証されなかったかもしれません。
そのため勝にとって、西郷の存在はとても大きかったのです。西南戦争後、勝は西郷の名誉を回復するために尽力しました。
今回見つかった西郷の手紙を通じて、やはり幕末の熱いドラマを感じてしまいます。
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