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新政府軍を前に逃げ出した徳川慶喜
1868(慶應4)年1月3日から6日まで、4日間にわたり繰り広げられた鳥羽伏見の戦い。
圧倒的な戦力を有していてにもかかわらず、旧幕府軍は、薩摩藩・長州藩を主力とする新政府軍に連戦連敗。
将兵たちは、じりじりと大阪へ追い詰められていきました。
しかし、幕末の大阪城は銃砲撃戦に対応できる大要塞で、伝習隊をはじめとする無傷の戦力を多く残し、大阪湾には開陽丸など強力な旧幕府艦隊が睨みを利かせていました。
新政府軍を指揮する西郷隆盛らも、旧幕府軍の大阪籠城を恐れ、長期間の戦いを覚悟していたといわれます。
そんな中、旧幕府軍の総帥・徳川慶喜は、1月6日の夜、股肱の臣を伴って突然大阪城から脱出。
この敵前逃亡が徳川家復権の望みを断ち切る決定打となりました。
なぜ、慶喜は大阪城から逃げたのか?その真相を探っていきましょう。
旧幕府軍の奮起を促した慶喜の大演説
1868(慶応)4年1月5日、大阪城の大広間には、前将軍・徳川慶喜の朗々たる声が響いていました。
そこに居並ぶのは、会津藩主で京都守護職・松平容保(かたもり)、桑名藩主で京都所司代・松平定敬とその家臣たち。そして、大阪城に詰める老中・若年寄などの幕閣たちでした。
徳川家康の再来・当代きっての英傑と称される慶喜。その声は、大広間の襖を震わすように、時に激しく、時に物静かに、聞く者全ての心を揺さぶる大演説でした。
「皆の者、我らは決して朝廷に反逆したのではない。我らはただ、君を我がものに操ろうとする奸臣を排除することのみだった。しかし、不幸にして賊軍のそしりを受け、いま我が陣営は危機に瀕している。だが諸君よ、正義は我らにある。この上は、この大阪城を断固死守しようではないか。もし、武運拙く、この城が燃え墜ち、私が討死にしたとしても、江戸城にいる徳川の忠臣たちが私の志を継いでくれるに違いない。諸君よ。ここは奮起一発、全力を尽くし、戦おうではないか!」
徳川には全く非はない。非は天皇の威を借り、権力を手に入れようとする薩長と公家だ。正義は徳川のみにある。
居並ぶ人々はみな、慶喜の悲壮な決意に打たれ、方々からすすり泣く声さえ聞こえてきます。
大阪城に籠る旧幕府軍の心が一つとなり、前将軍ともにここで死することを、誰もがみな誓った瞬間でした。
味方の将兵を見捨てて大阪城を脱出
しかし、翌々日1月7日の夜明け前、慶喜の姿は、大阪湾上を警戒する旧幕府艦隊旗艦・開陽丸の艦長室にありました。
なんと慶喜は、自らが先頭に立ち、新政府軍を迎え撃つと言った舌の根も乾かぬうちに、大阪城を脱出したのです。
慶喜と行動を共にしたのは、筆頭老中で備中松山藩主・板倉伊賀守勝静(かつきよ)、老中で播磨姫路藩主・酒井雅樂頭忠惇(ただとう)、若年寄・永井主水正尚志(なおゆき)らの幕閣たち。
そして、会津・桑名の藩主松平容保・定敬兄弟もいました。この二人は、慶喜の脱出直前に共を命じられます。
しかし、会津・桑名藩兵は、未だに前線に踏みとどまって、必死に戦いを続けている最中。
両名とも、頑なに固辞するも許されず、泣く泣く家臣たちを見捨てて、同行してきたのです。
翌8日夜、慶喜の厳命で開陽丸は、大阪湾を出帆、10日夕方に江戸湾浦賀港に投錨します。
ここに、慶喜の大阪城脱出・江戸帰還はなりました。
しかし慶喜のこの行動は、大阪城の幕府将兵たちを欺き、見捨てた、敵前逃亡に他ならなかったのです。
慶喜東帰のきっかけと開陽丸での会話
慶喜は、いつ江戸へ逃げる決意を固めたのでしょうか。それは、大阪城大広間での大演説の後であったと推測されます。
その日の深夜、慶喜は会津藩軍事奉行添役・神保修理長輝を呼び寄せ、現状の善後策を問います。
その問いに神保は、以下のように答えました。
「内府様におかれましては、速やかに江戸にお帰りになり、落ち着いて善後の策をめぐらされるのがよろしいと思われます。」
この神保の言葉の意味は、様々に解釈されています。多くは、神保が慶喜に恭順謹慎を勧めたというものです。このことが原因で、神保は裏切者とされ、この謁見から2ヶ月もしないうちに、江戸で自尽に追い込まれました。
しかし、この件について、1911(明治44)年、慶喜は以下のように語っています。
「神保の建言を聞いた後、その説を利用して江戸に帰り、固く恭順謹慎しようと決心したが、それは心の中にしまい、だれにも打ち明けなかった。」
慶喜は、「その説を利用した」と述べています。神保の言う「落ち着いて善後の策を」という言葉には、「時勢の推移を見て」という意味が含まれていたのかもしれません。
しかし、どうでしょうか。当時、神保は仲間である会津藩士たちが次々と倒れていく戦闘の真っただ中にいました。
ですからその真意は、あくまで江戸に帰って戦線を立て直すことを要望したのではないでしょうか。
そして、神保の主君・松平容保が、慶喜と開陽丸乗船中に交わした会話が伝わっています。
主命とはいえ、藩士たちを見捨てて江戸に戻ることになった容保は、責めるような口調で以下のように述べました。
「去る5日、内府様は勇ましい演説を行い、将兵の士気は大いに盛り上がりました。それなのに、何故、こうも急に東帰することを決心されたのか。」
この問いに対し、慶喜は平然と言ってのけたのです。
「あのような調子でやらなければ、皆が奮い立たないからだ。あれは一種の方便だよ。」
そして、板倉伊賀守を艦長室に呼び寄せ、こう厳命しました。
「自分は恭順謹慎して、朝廷の仰せの通りに従う決心をした。決して抗戦はしない。皆もそのように心得て欲しい。」
この言葉に、普段は温厚な板倉が顔色を変えて抗議したといいます。
1月5日からここまでの慶喜の言動は一貫性を欠き、不安定そのものでした。
腹心である板倉にも、そして、京都経営に労苦を共にした容保にすら全く本心を打ち明けようとしない。
そんな慶喜に何が起きていたのでしょうか。
様々な説が唱えられる慶喜の大阪脱出
慶喜の大阪城脱出については様々な説が唱えられていますが、主流を占めるのが、尊王説・深慮説です。
徳川御三家の中でも、特に尊王思想が篤い水戸家。その出身の慶喜の朝廷を重んじる精神から、新政府への恭順を選んだという尊王説。
そして、新政府との戦いによる内乱で日本国が疲弊することを避けるために、自己犠牲をも厭わなかったという深慮説。
両説は、いわば不出世の英才・慶喜を称える説です。
しかし、一方で両説とは全く真逆な、慶喜の変節説があります。
それは開陽丸上で交わされた、慶喜と容保の会話に対しての会津藩の所見『会津戊辰戦史』から伺えるのです。
「大阪城大広間で内府が述べたことは、心からのことであったに違いない。その時は、新政府軍と徹底抗戦をしようと決意していたのだ。しかし、この後に例の変節病が頭をもたげ、急な東下を決心したのだ。」
会津藩がいうこの変節病とは、一体何なのでしょうか。
実は慶喜は、第二次長州征伐の折にも
「たとえ千騎が一騎になるとも、山口城まで進入して戦を決する覚悟なり」
と、大見得を切りながら、前線の敗退にとたんに意気阻喪し、朝廷に停戦を働きかけ、孝明天皇の怒りを買っています。
これは大阪城で諸将の前で大見得を切っておきながら、鳥羽伏見での敗戦を目の当たりにすると、意気阻喪して江戸に逃げ帰ったのとまるで同じです。
また、越前福井藩主・松平春嶽は、慶喜の人間像についてこう述べています。
「慶喜公は、才知優れた人物であることは間違いない。しかし反面、とても肝の小さな性質なのだ。胆力が小さい故、なにごとも決断することができない。」
目の前で行われている戦いにおいて、戦う・戦わないを決断できない。様々な思考をめぐらせているうちに、負けた時の恐怖感がじわじわと湧きがってくる。
会津藩では慶喜の変節病を「臆病風」と考えた。臆病風に取り付かれた慶喜は、恐怖感に勝てず敵前逃亡を図った。
これが慶喜「変節説」です。
慶喜の判断が、その後の歴史を定めた
衰退著しい幕府権力の立て直しを任された徳川慶喜が、英知優れた人物だったのは間違いないでしょう。
そして、風向きが良い時は軍事面でも優れた才能を発揮しました。
禁門の変の際、銃弾が飛び交う前線で指揮を執っていた慶喜の姿は、まさに武門の総帥にふさわしいものでした。
しかし、優柔不断という欠点はやはりぬぐい切れません。歴史は、大きな転換期にこのような人物にその判断を委ねたのです。
明治維新政府は、富国強兵・殖産興業をスローガンに近代化の旗を掲げ、帝国主義の道をひた走ります。しかし、その実態は、薩摩・長州による藩閥政治。いわば、強権的な政治独占形態でした。
そこには、大政奉還を敢行した慶喜が目指した、挙国一致の政治体制は微塵もありませんでした。
日本は、日清戦争・日露戦争と数々の戦争を経て、太平洋戦争の敗戦で滅亡に瀕します。そうした日本の行く末は、慶喜の大阪での敵前逃亡に端を発していたのかもしれません。
※参考文献
野口武彦著 『鳥羽伏見の戦い』 中公新書刊 2010年1月
>日本は、日清戦争・日露戦争と数々の戦争を経て、太平洋戦争の敗戦で滅亡に瀕します。そうした日本の行く末は、慶喜の大阪での敵前逃亡に端を発していたのかもしれません。
唐突過ぎて薩長閥が興した明治政府から連なる日清日露戦争、太平洋戦争に慶喜の東帰がどう影響を与えたのかさっぱり分かりません。
よろしければその辺りの関連性のお考えをお聞かせ願えると幸いです。
歴史的な正しさがどうこうという堅い話ではなく、自分は慶喜の東帰から大戦の敗北が始まったとつなぐ事が出来ないので、一つの考え方に対する興味としての疑問です。
良い記事でした。
慶喜の東帰から王政復古、天皇制になり、ひらすら原爆で終戦になるまで戦争立国。
慶喜がチキンでなければ、天皇制に戻らなかった。
今また自民党が天皇制に戻そうとして、この国は大ピンチです。