島津斉彬(なりあきら)が第11代藩主に就任したのは、嘉永4年(1851年)2月のことであった。彼が43歳のときのことだ。
英雄といわれながらも、40歳を過ぎてなお藩主になれなかった斉彬。
彼がとった行動は、幕府を動かすという強攻策であった。
島津斉彬 の立場
薩摩藩第10代藩主・島津斉興(なりおき)は、決して正当な理由なく、息子・斉彬の家督継承を拒んでいたわけではない。それは西欧や中国の文物を好み、蘭学者などと好んで交流する斉彬が、8代・重豪(しげひで)のように豪奢な政策をとるのを恐れていたからである。
斉興の他にもうひとり、斉彬の藩主就任に反対するものがいた。家老の調所広郷(じしょひろさと)である。
苦労して立て直した藩の財政を、乱費で元のような苦境に戻されては適わないと思ったのだろう。参勤交代では薩摩は立地上、常に遠方へと駆り出され、天下普請(公共的な土木工事)による経費も藩の財政を危機的なまでに圧迫していた。調所は、重豪に天保2年からの10年間で、50万両の備蓄金を備える事などの無茶な命令を受けたが、どうにかこれを成し遂げたばかりである。
そこで、調所は次期藩主に、斉彬の弟・久光を強く推していた。
お由羅の方の存在
斉彬自身は、もちろん自分が藩主となり、藩政改革を行い、国難に対処したいと強く望んでいた。そこで目を付けたのが調所が行っていた密貿易であった。なんと、その情報を幕府老中の阿部正弘らに流し、幕府が薩摩藩を咎める画策したのである。
果たして、調所はその責任を一身に追う形で自害する。藩の内情暴露という苦肉の策であった。
この時期、斉彬の息子二がいずれも早世したため「(母親の)お由羅(ゆら)の方は、斉彬様を藩主にしないよう呪詛しているのだ」との噂があった。お由羅の方は久光の母で、斉興の側室であり、正室・周姫が亡くなっていたため、城内の奥で権勢を有していた。
この噂を信じ、お由羅やその支持者を暗殺しようとする者たちが現れる。それが、高崎五郎衛門ら、斉彬支持者のうちの過激派である。
父の隠居
しかし、暗殺計画は事前に漏れ、怒った斉興は高崎たち首謀者14名を捕らえて切腹させ、約50名を流刑や謹慎に処した(高崎崩れ)。
切腹した首謀者のなかには、西郷隆盛の4歳年上で、西郷が兄のように慕う赤山靭負(あかやまゆきえ)もいた。西郷は父にその顛末を聞き、赤山が最後に身に付けていた血染めの肌着を受け取った。そして、終夜それを抱き、涙しながら彼の志を継ごうと決意したという。
この大騒動に幕府も動く。斉彬の支持者でもある老中の阿部が、将軍名義で斉興に隠居を勧めたのである。こうなると、さすがの斉興も逆らえず従うしかなかった。
斉彬の台頭と西郷の受難
当時の参勤交代の制度上、斉彬はずっと江戸住まいであったが、この藩主就任でようやく鹿児島の地を踏むことができたのである。
翌年(1852年)、25歳になった西郷は、弟分である伊集院兼寛(かねひろ)の姉・須賀(すが)と結婚する。だが、新婚気分もつかの間だった。同年7月に祖父の隆充が死去。すると9月に父の吉兵衛が後を追うように亡くなり、11月には母・政までもが世を去ったのだ。これは西郷への過酷過ぎる試練と記すしかない。「この時期が一番辛かった」と後に振り返った波乱と受難の年が過ぎた。
翌年の夏、浦賀にはペリーが来航し、日本に衝撃が広がる。その激震止まぬ翌年(1854年)、西郷は参勤交代で江戸へ出る斉彬の随行員のひとりに選ばれた。初めて薩摩を離れ、大江戸へ出る機械を得たのである。
近思録
西郷は、初めて鹿児島の地を踏んだ斉彬の藩主就任を喜び、切腹した赤山の意思を継ぐ決意を新たにした。その年、すぐにやったことは、大久保利通たちと『近思録(きんしろく)』を研究し、持論を展開するグループを作ったことである。近思録とは儒教の入門書のような中国の書のことだ。
先人や仲間たちから多くを学び、より藩政に貢献できるようにと考えた。これは後年、幕政改革を訴えた活動団体「精忠組(誠忠組とも)」の前身にもなる。
西郷たちよりも前に、この『近思録』を研究していたというのが、薩摩藩9代藩主・島津斉宣(なりのぶ)に重用された秩父太郎という藩士だった。しかし、秩父が行った緊縮財政政策は、前藩主・重豪への批判と受け取られ、その怒りに触れて藩主の島津斉宣は隠居させられ、秩父ら改革推進派の約80名が切腹や島流しなどに処せられる事件が起こっていた(近思録崩れ)。
最後に
西郷らは、近思録を見直し、秩父ら気骨のある活動を受け継ごうとした。飽くなき知識への欲求が西郷を成長させ、やがては斉彬の右腕ともなる人物へとなってゆく。
そしてまた、斉彬も名君として名を残すのだ。
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すごい分かりやすくて読みやすかったです!
斉彬のまとめみたいなのってありますかね?
あったら教えてください
ありがとうございます。
島津斉彬だけの記事はまだありませんが、今後制作いたします。
今後共よろしくお願いいたします。