江戸時代

『江戸の奇行大名』色白の美女を集めて次々と…松平宗衍の異常な趣向とは

「いけませぬ!」

「よいではないか、よいではないか」

「あ~れ~!」……。

こう書くだけで、皆様の脳裏には「侍女に乱暴をはたらくお殿様」の姿が浮かんで来たのではないでしょうか。

お殿様のみんながみんな、このようなご無体をはたらいたわけではありませんが、中には権力にモノを言わせて女性たちを慰みものとしたお殿様もいたようです。

というわけで今回は、出雲国松江藩(島根県松江市)の第6代藩主・松平宗衍(まつだいら むねのぶ)を紹介。

果たして彼は、何をやらかしたのでしょうか。

幼くして父を喪う

松平宗衍は、享保14年(1729年)5月28日、第5代藩主・松平宣維(のぶお)と、岩宮(いわのみや。中務卿邦永親王女)の間に誕生しました。

幼名は松平幸千代(こうちよ)、一説には5月18日生まれとも言われています。

幸千代は3歳で父を亡くし、享保16年(1731年)10月13日に松江藩主の座を受け継ぎました。

時折しも、享保の大飢饉(同年末~翌享保17・1732年)に全国各地が喘いでおり、松江藩もまた例外ではありません。

画像 : 飢饉 イメージ

その後も災害が頻発し、享保大一揆の勃発など、藩の財政は窮乏に陥っていきます。

まだ幼い幸千代に難局の舵取りを期待できるはずもなく、松江藩では家老たちによる合議制が採用されました。

やがて幸千代は14歳となった寛保2年(1742年)12月11日に元服。時の第8代将軍・徳川吉宗(よしむね)から宗の字を賜り、松平「宗」衍と改名します。

衍とは難しい漢字ですが、敷衍(ふえん。敷きのばすこと)など、のべる・のぶる意味から「のぶ」と読ませました。

改名した松平宗衍は、従四位下(じゅしいのげ)に叙せられたほか、侍従(じじゅう)や出羽守(でわのかみ)に歴任します。

御趣向の改革に失敗

画像 : 御趣向の改革に取り組む小田切尚足(イメージ)

かくして松平宗衍は順調に成長。19歳となった延享4年(1747年)には家老たちの合議制を廃止しました。

そして、御直捌(おじきさばき)と呼ばれる親政を開始します。

御直捌の補佐役として、中老の小田切備中(おだぎり びっちゅう)こと小田切尚足(なおたり)を抜擢し、攻めの財政振興政策に着手しました。

これは後に、御趣向の改革(ごしゅこうのかいかく。延享の改革)と呼ばれるものです。

果たして御趣向の改革は一部で成果を上げるものの、相次ぐ災害や反対派の抵抗により竜頭蛇尾となってしまいました。

御趣向の改革は5年で幕を閉じ、宝暦2年(1752年)には小田切備中が失脚してしまいます。

更に追い討ちをかける如く、幕府は松江藩に対して比叡山延暦寺の山門を修築するよう命じました。

時に宝暦10年(1760年)、俗に「お手伝い(普請手伝い)」と呼ばれる、幕府の嫌がらせ(財力≒謀叛を起こす力の削減)です。

雲州様滅亡!?

画像 : 難局を切り抜ける朝日茂保(イメージ)

さぁ困りました。普請手伝いに成功しても藩の財政は窮乏するのは変わらないし、失敗した日には藩領の大幅減封も覚悟しなくてはなりません。

しかし嘆いていても埒が明かない……この難局を乗り切るため、松平宗衍は再び小田切備中を抜擢しました。

朝日茂保(あさひ しげやす)と共に仕置役を任じ、見事に比叡山延暦寺の普請手伝いを成功に導いたのです。

やはり、松平宗衍の人を見る目は確かだったということでしょう。

しかし普請手伝いに成功したところで、何らかの報酬が得られる訳ではありません。

結局のところ、松江藩の財政難は加速の一途をたどるばかりでした。

そんな様子から、松江藩の領民たちは口々に「雲州様滅亡」と噂したと言います。

雲州(うんしゅう)とは出「雲」国の雅称であり、ここではその国守であった松平宗衍を指していました。

財政難で引責辞任

苦しいやりくりの末、何とか滅亡せずに済んだ松平宗衍。

しかし明和4年(1767年)11月27日、財政難によって藩主を引責辞任。

家督を次男の松平治郷(はるさと)に譲って、隠居したと言うことです。

画像 : 松平治郷(松平不眛)public domain

そして安永6年(1777年)11月28日に出家して南海(なんかい)と号し、天明2年(1782年)10月4日に54歳で世を去ったのでした。

松平宗衍は、はじめは江戸の天徳寺(東京都港区虎ノ門)に葬られたものの、後に月照寺(島根県松江市)に改葬されています。

以上、松江藩主の松平宗衍について、その生涯を駆け足でたどってきました。

何だか財政再建に苦闘した場面ばかりが印象に残りますが、彼がその本性?を発揮したのは隠居後のことです。

若い美女たちを傷物に……。

隠居してからと言うもの、奇行に走るようになった松平宗衍。

特に彼が目をつけたのは、色白な若い美女たちでした。

家臣に命じて連れて来させ、その身体に次々と花模様の刺青(入れ墨)を彫らせたのです。

イメージ

松平宗衍のご無体ぶりを、彼女たちが嫌がったであろうことは言うまでもありません。

むしろ、嫌がる女性たちの身体に無理やり刺青を彫りつける様子を愉しみ、上から白い薄手の着物を着せました。

こうすると白い生地に花の刺青が浮き上がり、まるで霜が降りたかのようでした。

彼女たちの身体に一生消えない傷を彫り込み、さんざん愉しんだ松平宗衍。
しかし彼は飽きっぽい性格だったのか、女性たちを傷物にした責任を取るつもりなど毛頭ありませんでした。

人間、年齢を重ねれば、どうしたって大なり小なり肌は緩んでしまうもの。そうなるともう、見られたモンではありません。

しかし飽きたものは飽きたのです。次なる美女を迎えるために、飽きた刺青女たちを家臣らへ払い下げることにしたのでした。

遊び飽きた文身侍女の行方は?

画像 : 美人画 楊洲周延 public domain

「……というわけで。そなた、どうじゃ?」

「いえいえ、殿のご寵愛めでたき女性(にょしょう)を、某(それがし)の如きへ賜るなど、まったく畏れ多いことにございますれば……」

……とまぁこんな具合で、みんな辞退してしまいます。

そりゃそうですよね。いかにも「遊び飽きたから押しつける」感満々な女性を引き取っても、色々な意味で盛り上がりません。

刺青を彫られてしまった彼女たちは「文身侍女(もんしんじじょ)」などと呼ばれ、雲州松平家中において敬遠され続けました。

「なればそなたに……」

「いえいえ滅相も……」

文身侍女たちの始末に困った松平宗衍は、挙句の果てに「1000両の支度金をつけてやる」とふれ回ります。

1000両と言えば、1両が10万円として1億円。それでも誰一人として、彼女たちの引き取り手は現れなかったそうです。

いっときの慰みで傷物にされた挙句、腫れ物扱いされた文身侍女らが可哀想でなりません。

しかし1000両も付けてくれるなら、1人くらいは文身侍女を引き取る者が現れそうなものですが……考えてみれば、当時の松江藩は極貧とも言える財政難の極みでした。

女1人の引き取り賃に1000両なんて大金を出すとは考えられませんし、もし本当に貰った日には、周囲の視線が突き刺さることでしょう。

ましてや藩札なんてもらったところで単なる紙切れ……どのみち1000両なんて絵に描いた餅に過ぎません。

終わりに

画像 : 「まったく……」雲州様にお仕えするのも楽じゃない(イメージ)

他にも、出席者の全員が全裸で茶を点てる「全裸茶会」を開くなど、江戸時代でも屈指の奇行ぶりを発揮した松平宗衍。

文身侍女のエピソードは横溝正史の時代小説「女刺青師(※『人形佐七捕物帳』収録)」にも採り上げられ、腰元の背中に刺青を彫らせて喜ぶ松平相模守のモデルになったと言われています。

古来「事実は小説よりも奇なり」とはよく言ったものですが、江戸時代300藩の中には、もっと個性的なお殿様もいたのでしょうか。

今後も面白いお殿様を見つけたら、ぜひ紹介したいと思います。

※参考文献:
・奈良本辰也 監修『武士・官吏 仕事と暮らし』平凡社、1979年2月
・山本敦司『江戸の財政再建20人の知恵 藩財政破綻の危機を乗り越えた経世家群像』扶桑社、1998年11月
文 / 角田晶生(つのだ あきお) 校正 / 草の実堂編集部

角田晶生(つのだ あきお)

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