べらぼう~蔦重栄華之夢噺

江戸時代の「パパ活」?妾奉公と安囲いの知られざる実態とは

古代から近代まで続いた「妾」囲いの慣習

正妻のいる男性と契約を結び、経済的な援助を受ける代わりに男女関係を担う女性を「(めかけ)」と呼びます。

正妻以外に女性を持つ慣習は古代(奈良・平安時代)から存在し、日本古代の婚姻形態は「一夫多妻婚」あるいは「一夫一妻多妾婚」ともいわれます。

もっとも、その多くは経済的に余裕のある貴族や武家層に限られていました。

江戸時代に入ると、大名家では男子が絶えると幕府から「家名断絶・領地召し上げ」という過酷な処分が下されたため、殿様は複数の妾(側室)を置き、子をもうけることが一般化します。

画像:『千代田之大奥 歌合』橋本楊洲周延 public domain

このような事情から、江戸時代初期には上級武家や豪商の間で妾を置く習慣が広まりました。

さらに、時代が下って江戸後期になると、下級武士や一般商人の間でも妾を囲うことが行われるようになります。

現代の常識では理解しがたいことですが、当時は妾を持ち、複数の女性と関係を持つことが広く容認されていました。

この点については、やはり男尊女卑の価値観が背景にあったといえます。
加えて、日本で信じられてきた儒教や仏教が一夫多妻制を否定していなかったことも、こうした風潮に影響したと考えられます。

この「妾」を否定しない風潮は、江戸時代の終焉後も明治・大正期まで続きました。
新聞『万朝報(よろずちょうほう)』を主宰した黒岩涙香は、妾を持つ人物およそ500名を名指しで糾弾しています。

その中には、伊藤博文、犬養毅、原敬といった首相経験者の他、文学者の森鴎外、医学者の北里柴三郎といった文化人まで含まれいるから驚きです。

誰もが偉人と考えている人々も、しっかりと「お妾さん」を囲っていたのです。

上級から「安囲い」まで幅広かった妾のランク

話を江戸時代に戻しましょう。

あくまで物語上のことですが、井原西鶴は『好色一代女』の中で、とある殿様が契約金とは別に、「妾」の周旋屋へ支度金として100両を渡したと記しています。

江戸期は時代により貨幣価値が異なりますので、これを仮に1両=5万~10万円で換算すると、500万円~1,000万円に相当します。

画像:『洞房語艶以登家奈幾』為永春水著・天保11年(国会図書館蔵)

そして江戸後期になると、経済的に余裕のない下級武士や一般商人でも「妾」を持つ者が現れ、男数人でお金を出し合って一人の女性を囲う「安囲い」が流行しました。

この「安囲い」ではたいてい5人ほどで囲い、それぞれが日を決めて女性のもとに通ったといいます。

ちなみに、幕末の頃の「妾」の相場は、上級の女性で月に3両~5両ほど、安い方では1両程度とされます。
時代が下るにつれて貨幣価値は下がるため、これを現在の価値に換算すると、上級で約15万~25万円、下級でおよそ5万円ほどになるでしょう。

1両程度では大した実入りにならないため、下級の女性は特に「安囲い」で複数の男性と契約を結びました。

例えば5人と契約すれば月収は約25万円となり、男性側も1人あたり約5万円で済むため、まさに買う側・買われる側の双方にとって“ウィンウィン”の関係が成立したのです。

しかし、いくら「妾」奉公が差しさわりのない時代であっても、何人もの男と金銭で関係を結ぶことは遊女同様に売春を生業としていると見なされ、1859(安政6)年には、これを禁止する法令が出されたのです。

下女奉公の収入額をはるかに超えた「妾奉公」

では、なぜ「妾」奉公や「安囲い」が流行したのでしょうか。

それは、江戸時代の男性は武家・町民を問わず、地方から江戸へ出てくる者が多かったためです。

彼らは地元に妻子がいても、江戸では独り身同然。
そうした仮の独身者たちが、『安囲い』によって男女の関係を求めていたのです。

画像:葛飾北斎『風流男立八景・文七の落雁』(浮世絵検索)

もちろん、遊郭や岡場所に通うという選択肢もありました。

しかし、遊郭では最も安い新造でも1回あたり約1万2千円、岡場所や宿場の飯盛女もほぼ同額でした。

また、需要という面では、女性側にもメリットがありました。
下女奉公の給金は1年で1両2分が相場とされ、懸命に働いても年間わずか6万円から12万円程度にしかなりません。

それに比べれば、たとえ「安囲い」であっても、1か月25万円という「妾」の暮らしは、はるかに豊かでした。

そのため、小商いを営む商家の娘などが、すすんで「安囲い」をはじめることもあったのです。

生活への不安が娘たちを「妾奉公」に駆り立てた

「妾奉公」や「安囲い」は、現代でいうパパ活や援助交際に近い関係とみなすこともできるでしょう。

その背景には、町場に暮らすごく普通の女性たちが、貧しさゆえに抱える生活苦が大きく関わっていました。

画像:妾イメージ 鳥高斎栄昌(浮世絵検索)

江戸中期から幕末にかけては、数々の災害が発生し、それに伴って飢饉も頻発した時代です。
江戸幕府はもとより、各藩も財政の悪化に苦しみ、幕政改革や藩政改革がたびたび行われました。

よく知られる幕政改革としては、徳川吉宗の享保の改革、田沼意次の田沼政治、松平定信の寛政の改革、水野忠邦の天保の改革があります。しかし、改革路線に一貫性がなかったため、改革のたびに貨幣価値が大きく変動しました。

1両小判の値打ちが急に倍になったり、半分になったりと経済は安定せず、人々は常に生活への不安を抱えながら暮らしていたのです。

このような状況の中で、下級武士や庶民の暮らしはますます逼迫していきました。
庶民の娘が「妾奉公」に身を委ねるのも、まさにこうした時代背景ゆえのことであったのです。

※参考 :
菊地ひと美著 『花の大江戸風俗案内』ちくま文庫刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

高野晃彰

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編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」の代表。歴史・文化・旅行・鉄道・グルメ・ペットからスポーツ・ファッション・経済まで幅広い分野での執筆・撮影などを行う。また関西の歴史を深堀する「京都歴史文化研究会」「大阪歴史文化研究会」を主宰する。

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コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2025年 8月 14日 11:17am

    万朝報は『よろずちょうほう』ですね。

    0
    0
    • アバター
      • 草の実堂編集部
      • 2025年 8月 14日 1:35pm

      ご指摘まことにありがとうございます。
      修正させていただきました。

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