幕末明治

松本城の構造と見どころ 【6層の天守は日本最古】

北アルプスの雄大な山々を一望できる長野県松本市。

JR篠ノ井線「松本駅」から徒歩で15分ほどの場所に漆黒の城がある。それは現存する日本最古の五重天守、松本城の天守であった。

今でもかつての状態のまま天守が残っている「現存天守」はわずか12しかない。

そのうち、五重天守をもつ城は松本城姫路城のみである。

なぜ、松本城の天守は現存することが出来たのか調べてみた。

深志城

松本城

※天守(国宝)

その城が松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)といった。その地名の名残は松本市内にある「長野県立松本深志高等学校」などに残っている。

戦国時代の永正年間(1504-1520年)に、信濃守護家小笠原氏が林城(はやしじょう)を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている。

天文年間には甲斐の武田氏の支配下にあり、1582年(天正10年)武田氏滅亡によって、織田家、上杉家と領主が変わり、徳川家康の麾下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城と改名した。大坂の陣以後は、松平康長や水野家などの松本藩の居城として機能。

水野家の後は松平康長にはじまる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。

1727年(享保12年)には本丸御殿が焼失、以後の藩政は二の丸で執務がとられた。

松本城の構造


※本丸内側より。右から乾小天守、渡櫓、大天守、辰巳附櫓、その手前に月見櫓。

典型的な平城。本丸・二の丸・三の丸ともほぼ方形に整地されている。南西部に天守を置いた本丸を、北部を欠いた凹型の二の丸が囲み、さらにそれを四方から三の丸が囲むという、梯郭式に輪郭式(どちらも本丸防御のための建物の配置方式)を加えた縄張りである。これらは全て水堀により隔てられており、現存12天守の中では唯一の平城である。

防御のために外側から総堀・外堀・内堀の3重の堀が設けられていることも特徴。総堀は明治時代にほとんどが埋め立てられてしまったが、外堀は復元中とのこと。

江戸時代になり、徳川家康の孫である松平直政が松本城主になる。3代将軍・徳川家光が善光寺(長野市)に参拝することになり、「辰巳附櫓(たつみつけやぐら)」と「月見櫓(つきみやぐら)の2棟を増築した。当時は幕府が大名の統制を図るために、城の新築・増築を禁じていたが、これは将軍の身内の特権であろう。赤い欄干を配して、風雅な雰囲気を持つ。

結局、家光の参拝は中止となったが、天守に付属する月見櫓としては唯一の遺構となった。

天守

※傾いた天守(明治時代撮影)

5重6層の天守を中心にし、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式天守である。

後年、東側に辰巳附櫓と月見櫓が複合された構造は、松本城だけに見られるものである。この構造を連結複合式天守と呼ぶ。上空から見ると、北を上にしてL字型をしている。

大天守は構造的には望楼型天守から層塔型天守への過渡期的な性格が見られ、2重目の屋根は天守台の歪みを入母屋(大屋根)で調整する望楼型の内部構造を持ちながら外見は入母屋を設けず強引に寄棟を形成している。

つまり、外観を整えるために内部構造が複雑になった。

3階の、低い天井に窓のない特殊な空間が生まれたのはこのためで、パンフレットなどでは「秘密の階」と説明されているが、構造上は2重の上に生じた大屋根構造の名残りともいえる屋根裏的な空間を階として用いたことによるものである。そのため、外観は5重に見えるが内部は6層となっている。

※松本城の航空写真

明治維新後、1872年(明治5年)に天守が競売にかけられ、一時は解体の危機が訪れるが、市川量造ら地元の有力者の尽力によって買いもどされて難を逃れる。

明治30年代頃より天守が大きく傾き、これを憂いた松本中学(旧制)校長の小林有也らにより、天主保存会が設立され、1903年(明治36年)より1913年(大正2年)まで「明治の大修理」が行われた。

傾きの原因は、軟弱な地盤と天守台の中に埋め込まれた16本の支持柱の老朽化により、建物の自重で沈みこんだとされている。

堅牢強固


※手前が城の西側に架けられた赤い橋「埋橋(うずみばし)」。昭和30(1955)年に架けられた。現在は渡ることができない。

松本城は、市民からは別名「烏城(からすじょう)」とも呼ばれている。外壁に黒漆を塗った漆黒の城であるためだ。

これは、小笠原氏のあとに入城した石川数正・康長親子の時代に塗ったもので、豊臣秀吉の大阪城が黒で統一されていたことから、秀吉への忠誠のしるしと言われている。

それに対し、姫路城のように「白亜の城」は徳川家康の時代の城とされる。これは全国的にも良く見られる年代的特長だ。

さらに戦国時代に築かれたことから、天守は実にシンプルで居住性よりも堅牢さを重視している。安土桃山時代に織田信長が築いた安土城とは正反対である。

迎撃用の「鉄砲狭間(てっぽうざま)」「矢狭間(やざま)」とよばれる壁の小窓が115ヵ所もあり、江戸時代に築城された他の城と比べるとかなり多い。上から3番目の屋根の上の三角形の装飾「千鳥破風(ちどりはふ)」は通常は明かり取りとして使われていたが、戦闘の際は内側から銃で狙える造りにもなっていて、物見の役目も果たしていた。

また、壁面は銃弾を通さないよう、最大約30cmもの厚さ、内堀は当時の火縄銃の有効射程距離ギリギリの設定であるおよそ60mの幅となっている。さらに、石垣上には床を突き出すように設けた「石落(いしおとし)」が見られる。戦闘時には、ここから石垣を登る敵を迎撃することも出来た。

500年前の空間

※非常に急な天守内階段

大天守の内部は有料で一般公開されているが、そこも築城当時のまま時間を止めた空間になっている。

全体的に窓が少なく、あっても小さいために内部は薄暗い。柱の数も多く、骨組みが強固であることが実感できる。乾小天守は丸太柱があるのが特徴で、築城当時から400年以上残っているものもあるという。

そして、何よりも驚かされるのは階段の勾配である。私も以前に昇ったことがあるが、大天守の4重から5重への階段は最高61度の傾斜があり、階段というより梯子のようであった。やはり、ここでも居住性は考えられておらず、戦闘に特化した天守だということがわかる。

最上階の天井中央には、松本城のご神体「二十六夜神(にじゅうろくやしん)」が祀られている。

最後に

松本は、戦国時代には甲斐の武田氏と越後の上杉氏に挟まれた情勢的に不安定な場所であった。それでも実際には戦いに巻き込まれることはなく、現在まで残れたのである。
さらに倒壊の危機に直面したときにも、市民の助けによってその姿をとどめることができた。

これにより、大天守は全国で5つだけ指定されている国宝のひとつとなったのだ。

関連記事:安土城
織田信長は安土城に何を求めたのか調べてみた

松本城公式HP→http://www.matsumoto-castle.jp/

 

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