外国船の打払令を痛烈
高野長英とは (たかのちょうえい)は、江戸時代の末期を生きた医師であり蘭学者でした。
その学識から当時の徳川幕府の攘夷政策であった外国船の打払令を痛烈に批判し、それが元で非業の死を遂げることになった人物です。
時の幕府による政策に対し、自らの命の危険を顧みずに反対を表明するなど、その生き様は気骨に溢れた開明的なものでした。
如何にして長英がこうした立場を取るに至ったのかを調べて見ました。
武士の家柄だった 高野長英
長英は文化元年(1804年)に武士である父・後藤実慶の子として陸奥に生まれました。
長英が9歳の時に父・実慶は死去し、以後は医者であった叔父・高野玄斎の養子として育てられました。
義父・玄斎はかつて杉田玄白に師事し医学を修めた人物だったこともあり、長英も医学を含む学問を身近にする環境で過ごしました。
長英は、文政3年(1820年)に江戸に上り、杉田伯元・吉田長淑に学ぶと、ここで吉田長淑に学問の才を評価されて、「長」の一字を授かり「長英」を名乗ることになりました。
鳴滝塾の塾頭
江戸にあった文政3年(1820年)、長英は義父・玄斎の反対にも関わらず、九州の長崎へと赴いてシーボルトが主催していた鳴滝塾に遊学しました。
ここで当時最先端の医学や蘭学を学ぶと、瞬く間に頭角を現して塾頭を務めるほどになりました。
しかし文政11年(1828年)にご禁制の日本地図をシーボルトが国外に持ち出そうとした、所謂シーボルト事件が発生します。これに伴ってシーボルトの高弟であった二宮敬作や高良斎などが幕府に捕縛される事態となりましたが、長英はかろうじて幕府の手から逃れました。
この後、義父の玄斎が死去しましたが、長英は陸奥への帰国を拒否し、家督と武士としての身分も失う道を選びました。
江戸での活動
長英は故郷と身分を捨てた後の天保元年(1830年)、江戸・麹町で町医者を開業すると同時に蘭学塾を開きました。
この後三河田原藩士と知己を得た長英は、その学識を評価され三田原藩に仕える蘭学者となって複数の蘭学書の翻訳に従事しました。このときに日本で初となったピタゴラス、ガリレオなどの著作の要約を行っています。
天保3年(1832年)には天保の大飢饉に対する救済会であった尚歯会に名を連ね、水戸藩の藤田東湖らと会の中核として活動を行いました。
蛮社の獄で投獄
天保8年(1837年)、浦賀において異国船打払令に基づいたアメリカ商船モリソン号に対する砲撃事件が発生しました。
翌天保9年(1838年)にこのことを知った長英はこうした幕府の行いを厳しく批判しました。このとき長英は自らの考えを「戊戌夢物語」として著し、あくまで内々にこれを回覧しました。しかし長英の手を離れたこの著作は広く国中の学者の間に浸透していきました。
このため、天保10年(1839年)に蛮社の獄と呼ばれる幕府の弾圧行為が発生すると、長英も幕政を批判した罪で捕縛され、伝馬町の牢に繋がれることになりました。
長英は牢でも同じく服役した者たちへの医療を施し、牢内の環境改善を主張したとされています。
6年の逃亡生活
その後長英は、弘化元年(1844年)6月に牢の火災の隙をついて脱獄に成功しました。このときの火災自体が、長英が主導したものとも伝えられています。
脱獄後、長英は人相を変える為に、硝酸を用いて自らの顔を焼いて逃亡を続けました。その後再び江戸に戻った長英は仲間に匿われて、西洋の兵学書の翻訳などを行いまいした。
さらにその後伊予宇和島藩の主、伊達宗城の庇護を受けると、ここにおいても蘭学書の翻訳、藩兵の装備の洋式化に寄与しました。その後、しばらくして江戸へと戻った長英は「沢三伯」という偽名で町医者を始めました。
脱獄から6年後の嘉永3年(1850年)10月、長英は町奉行所に正体を知られ捕縛されました。この捕縛の後、長英は護送される途中で自害して果てたと伝えられています。
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