江戸時代の三大改革「享保の改革」「寛政の改革」そしてもう一つが老中の水野忠邦が行なった「天保の改革」である。
天保の改革を行った老中の水野忠邦とはどのような人物だったのか、天保の改革をするに至った背景や具体的な内容について解説する。
水野忠邦とは
水野忠邦は寛政6年(1794年)6月23日第3代唐津藩主・水野忠光の次男として生まれる。
長男が早くに亡くなったために忠邦は跡継ぎとなり、文化9年(1812年)に父の隠居で家督を継ぎ19歳で唐津城主となる。
忠邦は幕閣として昇進するという出世願望が強く、多額の猟官運動(賄賂)を使って文化13年(1816年)奏者番となった。
当時の幕府は賄賂が横行し、家の格や役職を金で買うのはどの大名でもやっていたことだった。
奏者番は江戸城における武家の礼式を管理する役職で、唐津城主は一番出世してもこの奏者番にしかなれなかった。
唐津藩には長崎を警護するという大事な職務があったからだ。
しかし、忠邦は奏者番には満足せず更に賄賂を使って、唐津藩の実封25万3000石から実封15万3000石の浜松藩に転封を願い出るという荒業を使って、文化14年(1817年)に国替えを実現させた。
当然家臣たちから大反対を受け家老・二本松義廉が忠邦に諫死をして訴えるも、忠邦は強引に成し遂げてしまった。
そして唐津藩の土地を幕府の天領にさせたのは賄賂だとされ、天領になった年貢の取り立ても厳しく忠邦は領民から恨まれた。
この浜松への国替えによって忠邦の名は幕閣の知るところとなり、すぐに寺社奉行になり文政8年(1825年)には大坂城代と従四位下に、文政9年(1826年)には京都所司代と侍従・越前守になる。
文政11年には西の丸老中となり将軍の世子・徳川家慶の補佐役になる。天保5年(1834年)には本丸老中となり天保10年(1839年)には幕閣の最高要職である老中首座になった。
天保の改革に至る背景
11代将軍の徳川家斉(いえなり)は53人もの子供を作った子沢山の将軍として知られるが、その子供たちを全国の諸大名の跡継ぎや正室とした。
そして婚礼の支度金などの名目で、貨幣鋳造で得た資金を幕府への借金へと充てた。
家斉は娯楽を推進し江戸では歌舞伎や落語などが大流行した。時代劇などで描かれる江戸の町はこの時代のものである。
農村では自然災害や大飢饉によって米が取れず、収入が激減して暮らしていけない農民が江戸に流出した。
当時の江戸の人口は100万人を超えていたが農村は人出不足だった。
全国的な凶作によって米価や物価が高騰し、天保の大飢饉や百姓一揆など都市への打ち壊し、大塩平八郎の乱なども起こっていた。
派手な財政支出と、年貢米が取れないことで幕府の財政はひっ迫した。
当時の外国との関係
日本ではこれまで鎖国政策を取っていたがこの頃は外国船が日本近海に現れ、寛政4年(1792年)ロシアのラクスマンが根室に来航して通商を求めた。
文化5年(1808年)イギリスのフェートン号がオランダ国籍と偽って長崎に侵入した。
このように外国船は日本近海に現れ、中には幕府に内緒で貿易をして儲けている藩もあった。
これらの事件で幕府は文政8年(1825年)異国船打払令を発令して鎖国を貫く姿勢を見せた。
天保8年(1837年)アメリカ船のモリソン号が日本人漂流者を送り届ける目的で現れたが、砲撃された。
この事件はモリソン号が非武装だったために国内外から批判された。
大飢饉による米価・物価高騰、江戸への人口集中、外国船の脅威などの諸課題に家斉政権では有効な施策を行っていなかった。
天保の改革とは
天保8年(1837年)11代将軍・家斉は隠居して12代将軍・家慶となり、老中首座の忠邦は農村復興のための人返令と奢侈禁止を諮問するも、大御所・家斉の側近たちや大奥などの反対によって実行することができなかった。
天保12年(1841年)大御所・家斉が死去すると、忠邦は人事の刷新に着手する。
これが天保の改革の第1歩となる、忠邦が約2年間の間に行った施策をまとめて天保の改革というのである。
人事の刷新
刷新されたのは家斉の側近で賄賂を貰っていた御側御用取次の水野忠篤、若年寄の林忠英、小納戸頭取の美濃部茂育、勘定奉行の田口喜行らを始めとして旗本68人・御家人894人にも及ぶ。
代わりに遠山景元・矢部定謙・岡本正成・跡部良弼・川路聖謨・鳥居耀蔵・江川英龍・渋川敬直・後藤三右衛門・高島秋帆らを登用した。
株仲間の解散
忠邦は物価高騰の原因が株仲間にあるのだと考え、株仲間を解散した。
株仲間とは幕府の許可を得た同じ業種の組合のようなもので、加入すると冥加金という税金を納める代わりに独占販売を認めるというものである。
忠邦は株仲間を解散し自由競争にして物価の安定を図るも、原因は株仲間ではなく江戸に商品が入りづらくなっていたからだった。
株仲間を解散した結果、今までの流通が余計に複雑化し更なる物価高騰を招いて失敗する。
外国船の脅威に対しては、1840年から起こったアヘン戦争で清が負けたのを見て、異国船打払令を緩め外国船に水や燃料などを補給する薪水給与令を天保13年(1842年)に発令した。
人返し令
農村から江戸への人口流出を避けるためと幕府の財政再建策として、江戸に入った農民を強制的に農村に返す人返令を天保14年(1843年)に発令したが失敗に終わる。
財政立て直しを図るための施策だったが、米による税収に頼った幕府の財政政策の無さが逆に浮き彫りとなる結果になった。
上知令
改革の目玉政策として打ち出したのが天保14年(1843年)の上知令である。江戸・大坂の十里四方に当たる大名・旗本の領地を幕府に返還させて優良な土地を幕府が管理することで税収アップを狙ったものだ。
上知令には外国船の脅威に対する海防上の利点という一面もある。
上知令は幕府の威厳を試すものでもあったが、将軍家慶を始め幕閣や庶民にも賛同されずに実施されずに終わった。
娯楽の制限
質素倹約に努めるために綱紀粛正と奢侈禁止を命じて、歌舞伎の芝居小屋の浅草への移転や寄席の閉鎖など庶民の娯楽に制限を加えた。
寄席の大半である200ヶ所を超える規制を行い、廃業に追い込まれる所も多く15ヶ所になった。
免除された寄席では演目を娯楽以外のものに限るなどの規制を行った。
歌舞伎には市川團十郎の江戸追放、役者の生活の統制、興行地の限定を行い江戸・京都・大坂のみとした。
江戸の繁華街にあった江戸三座を浅草に移転させた上に歌舞伎の廃絶を画策する。しかし、歌舞伎が好きな北町奉行・遠山景元(遠山の金さん)が進言して廃絶は取りやめとなった。
派手なものとして花火の禁止などを断行して忠邦は庶民から「悪魔外道」と呼ばれるようになった。
貨幣の改鋳
金利政策として金利を引き下げ旗本・御家人の未払い債権を無利子にしたが、貸し渋りが起こって失敗した。
そして貨幣の改鋳を行うも、やりすぎたために逆に高インフレを起こしてしまった。
水野忠邦は様々な施策を行うも失敗が続き、特に上地令の反発が大きく、天保14年(1843年)閏9月14日に老中職を罷免されて失脚し、天保の改革は中止された。
水野忠邦の失脚と再登板
天保の改革の前に薩摩・長州藩などの西国雄藩や水戸藩などは藩独自に財政を立て直していた。米の年貢に頼った幕府の財政再建策は時代遅れだったことが露見する。
忠邦は天保の改革を過激に急激に行ったことで庶民の恨みを買い、失脚した際には屋敷が庶民によって襲撃された。
弘化元年(1844年)5月に江戸城本丸が火災によって焼失する。老中首座・土井利位は諸大名から再建費用を集めたが献金は集まらなかった。
それほどまでに幕府の権威は失墜していたのだ。
同年6月将軍・家慶は忠邦を老中首座に再任したが、重要な任務を与えられることもなかったためか昔の面影は無く、御用部屋でぼんやりしている姿が多かった。
7月からは病気を理由に度々欠勤し、12月からは癪を理由に老中を辞する弘化2年(1845年)2月まで一度も勤めには出なかった。
反面、天保の改革で自分を裏切った土井や鳥居には報復を行い、土井は老中を辞任し鳥居は罷免された。
その後、天保の改革時代の鳥居や後藤らの疑獄嫌疑が発覚し、忠邦は2万石が没収となり家督を長男・忠清が継ぐことを許された上で、強制の隠居・謹慎が命じられ出羽国山形藩5万石に転封を命じられた。
嘉永4年(1851年)2月10日忠邦は58歳で亡くなり、死後5日後に謹慎が解けた。
出世城の浜松城
徳川家康が武田信玄との三方ヶ原の戦いに負けて逃げ帰った城が浜松城だ。
敵が追ってくるのを防ぐために家康は空城計を用いて危機を乗り切った。
その後、家康が天下人となったことから浜松城は「出世の城」と言われるようになった。
浜松城主は江戸時代を通じて25人いるが、その中から老中6人、京都所司代2人、大坂城代2人、寺社奉行4人と多くの要職者を出した。
だから、幕府の要職を望んだ忠邦は浜松城主にどうしてもなりたかったのだ。
浜松藩と唐津藩は表向きの禄高は同じ6万石なのだが、実封は唐津藩25万3000石で浜松藩15万3000石。何と10万石も下がるのに忠邦は願い出た。
唐津藩には長崎の警護をするという大事な仕事があったため、幕府の要職にはつけないからである。
家臣が自害までして忠邦の転封を止めようとするも実現させ、本当に老中首座にまで登りつめたのだから浜松城はすごいのである。
幕府失墜のきっかけ
水野忠邦は唐津藩主の跡継ぎとして生まれ、譜代大名の最高要職である老中になるために、裕福な唐津藩から浜松藩への転封を願い出て出世街道を進む。
この時代は自然災害や飢饉が多く、米に頼った幕府の財政はひっ迫して大規模な一揆や大塩平八郎の乱が起きている。
一方で江戸庶民は娯楽に興じ、11代将軍・家斉の華やかで自由奔放なやり方から幕府への批判は強まる。
忠邦は古き良き徳川時代の復古を目指して天保の改革に着手するが、質素倹約を強硬に断行して庶民から恨まれる。
かなりの自信家で自分の策が通じると思った忠邦だが、世の中は甘くないと実感させられたはずだ。
幕府の権威は天保の改革の失敗によって失墜し、雄藩は倒幕へと舵を切ることになる。
実封は唐津藩25万3000石で浜松藩15万3000石。何と20万石も下がるのに忠邦は願い出た。
10万石やないか
ご指摘ありがとうございます。
訂正いたしました。