由井正雪とは
由井正雪(ゆいしょうせつ)は、江戸時代前期の軍学者で、徳川幕府に対して大規模な陰謀を画策した人物である。
数千人の浪人を集めて将軍を拉致し、幕閣を殺害して天下の権力を握ろうと野心を抱いた。(慶安の変、または由井正雪の乱とも呼ばれる)
この陰謀は事前に発覚して未遂に終わってしまうが、大名家の改易や浪人対策など幕府の政策に大きな影響を与えている。
一介の学者に過ぎない由井正雪が、なぜ幕府の根幹政策を覆し大規模な陰謀を画策するに至ったのか?その生涯について迫る。
由井正雪の生い立ち
由井正雪は、慶長10年(1605年)駿河の岡村彌右衛門という、農家と染物屋を兼業していた家の次男として生まれた。
正雪は謀反を企てた罪人であるために、詳細な記録は幕府によって処分されていて残ってはいない。
正雪は家業を手伝うのを嫌ったために、臨済宗の寺に入れられた。
当時の駿河では臨済宗は徳川家から庇護されていて、正雪はここで読み書きや学問を学んだという。
しかし、僧になることを嫌ったために寺から去り、郷里に戻る。
そこで、ある浪人から軍記や歴史書の講義を受けることになり、正雪は武士へのあこがれを持つようになった。
正雪は「太平記」と「太閤記」に感銘を受け、楠木正成や豊臣秀吉のような人物になりたいと思ったという。
17歳になった正雪は、江戸に出て親戚の鶴屋彌次右衛門が営む菓子屋で奉公を始めた。
しかし21歳の時に彌次右衛門が病死してしまう。
すると親類たちのはからいで、正雪は婿入りして菓子屋を継いだ。
しかし、正雪は菓子屋の仕事をまったくせず、武士や浪人たちと諸方へ遊学に向かうなど菓子屋の仕事をおろそかにしたため、離縁の話が持ち上がった。
軍学者となる
正雪は江戸の牛込に住む楠木不傳という学者の門下生となり、軍学を学ぶ。
楠木不傳は正雪が憧れている楠木正成の子孫だと名乗り、正成が愛用したとされる短刀や楠木家の系図も持っていた。
それらが本物なのかは分からなかったが、正雪は熱心に学び、不傳の世話をしたことから信頼を得ていく。
前述した離縁の話が出た時は逆に喜び、菓子屋を出て何と不傳の娘と結婚したという。
正雪は不傳から軍学書を授けられ師範となり、楠木正成を尊敬していたことから「楠木正雪」または楠木氏の本姓の関係から「由井正雪」と名乗ったという。
正雪は神田の長屋に「張孔堂」という塾を開き、弟子を募って講義を行った。(※張孔堂は中国の名軍師、張良と諸葛亮が由来)
正雪は農家の次男という出であったために、楠木正成の名声を利用して門人を集めた。
正雪は人に教えるのがとても上手くすぐに評判となり、張孔堂には多くの門人が集まった。その中には浪人のほか諸大名の家臣や旗本も多くいたという。
正雪の名声はどんどん高まり大名屋敷にも出入りできるようになり、御三家の紀州藩主・徳川頼宣や備前藩主・池田光政などと親交を持つようになった。
池田光政は正雪を5,000石で召し抱えようとしたが、正雪はこの申し出を断ったという。
正雪は諸大名を指南するのではなく、徳川将軍家を指南しようという野心を持ったと考えられる。
慶安の変
軍学者として名声を高めた正雪のもとには、多くの浪人たちが集まるようになった。
再仕官を目指す浪人たちは、諸大名と付き合いのある正雪に近づけば、任官先を紹介してもらえると考えたのである。
そんな浪人たちで塾は膨れ上がり、門弟の数は3,000人にもなったという。
当時は幕府が有力な外様大名(加藤家や福島家など)を改易しており、江戸には多くの浪人たちが集まり溢れかえっていた。
また、大名家に後継者がいなかった場合にも養子を許さず取り潰して改易していたために、増え続ける浪人は社会問題となっていたのだ。
正雪のもとに集まった浪人たちは収入が少なく、幕府に対し不平不満が募っていた。
しかし、一方ではいつかは武士として出世したいという野心を持つ者も多かった。
正雪はそんな浪人たちに同情したのか、もしくは利用して更なる出世を実現しようとしたのか、大それた計画を画策し始める。
江戸城襲撃計画
慶安4年(1651年)3代将軍・家光が亡くなり、11歳の家綱が4代将軍に就任した。
政治は幼い将軍の補佐にあたる幕閣たちが行なったため、幕府の屋台骨が揺らぐのではないかという声が高まっていく。
そんな中、紀州藩主・徳川頼宣(とくがわよりのぶ)が、将軍・家綱に取って代わるのではないかという疑念が抱かれるようになった。
正雪はそんな頼宣の状況に目をつけ、頼宣が自分の後ろ盾についていると嘘をつき、頼宣の印判を偽装してそれを捺印した書類を作成し、同志を募った。
正雪の計画は以下である。
まず江戸の火薬庫に火を放ち大量の火薬を爆発させ、それと同時に各所に放火して江戸の町を大混乱させる。
その隙に同志の丸橋忠弥が江戸城に侵入し、御徒頭という将軍の身辺警護役の名を語り、将軍を江戸城から連れ出す。
そして将軍の側に仕える者たちを殺害して、将軍を駿河の久能山へと向かわせる。
浪人たちによる決死隊が江戸城に登城する幕閣を襲撃して殺害し、将軍の身柄を取り戻そうとする部隊を鉄砲隊で迎撃させる。
また京都や大坂にも仲間を派遣し、江戸の計画がうまく行ったら京都では二条城、大坂では大坂城を占拠して京都と大坂を掌握する。
正雪は駿河の久能山を本拠地として東西の連絡をとりながら全体の指揮を行う。そして金銀を集めて軍を興し将軍・家綱を擁して天下に号令する。
由井正雪の乱(慶安の変)に集まった浪人たちは、何と5,000人を超えていたという。
幕府の密偵
幕府の隠密の元締めをしていた旗本・中根正盛は、正雪の門下生の中に密偵を送り込みこの計画を掴んでいた。
5,000人も集まればその中に幕府の密偵が混じっていても誰も分からず、雑多に人を集めたことが裏目に出た。
中根正盛は正雪の計画を老中・松平信綱に報告。信綱は情報を知ったにもかかわらず少しの間、正雪を泳がした。
信綱は正雪の陰謀を利用して徳川頼宣の失脚を画策したのだ。
しかし、どんなに調べても徳川頼宣が正雪の計画に加担している証拠は見つからなかった。
前述したとおり、正雪は頼宣の名前を勝手に利用しただけで、頼宣はまったく関与はしていなかったのだ。
そしてついに正雪たちは計画を実行する為に動き出し、幕府は捕縛に向けて動き出す。
由井正雪の最期
慶安4年(1651年)7月21日、正雪は計画が幕府に露見していることを知らずに江戸を出発。7月25日に駿府に到着して宿で同志たちの決行を待った。
しかし江戸で行動するはずだった丸橋忠弥が、7月23日に幕府に捕縛されてしまう。
駿府に到着した正雪は後から来る同志たちを待っていたが、宿泊先の主人である駿府梅屋町の町年寄梅屋太郎右衛門が、重大な犯罪者の捜索が始まるとの噂を聞き、自分の所の客ではないかと町奉行所に訴え出た。
役人たちに宿の周囲を取り囲まれた正雪は「我々は紀州大納言・徳川頼宣の家臣である」と称して、そのまま宿に滞在を続けた。
幕府の役人たちも「もし本当に徳川頼宣の家臣であればまずいことになる」と、手を出すことは出来ずにいた。
しかし江戸で捕縛された仲間が計画を打ち明けたために、ついに幕府の役人たちは宿に踏み込んだ。
ここでも正雪は「紀州・頼宣の身内の者だ」と言って切り抜けようとした。
しかし今回ばかりは役人たちは一歩も引かない構えを見せたため、正雪は覚悟を決めて「乗り物にてまかり越すので支度をする」と言って奥の座敷に下がった。
しばらくすると奥の座敷から物音がしたので役人たちが踏み込むと、正雪たちは自害しており、介錯役の僧・廓然だけが生き残っていた。
正雪の側には書き置きがあり、そこにはこう書かかれていた。
「天下の制法は無道であり上下ともに困窮している。これを諌めようとした者の意見は受け入れられず忠義の志も空しくなった。これは天下の大いなる嘆きであり上様のためによろしくない。
不肖ながら私が天下を困窮させている幕閣の酒井忠勝らを追放してやろうと思って人数を集め、はかりごとを巡らして天下の長久をもたらす政治を行おうと考えた。
紀州大納言殿の名を借りたのは人を集めるための偽りである。誰からも扶持を受け取ってはいない。我が心底は天が照覧する如く他に何もない。申したいことはあまたあるが時が急であるのでこれだけを申し残しておく。」
江戸で捕縛された丸橋忠弥ら35名の仲間も処刑されて、大坂で決起する予定だった仲間たちは自害したという。
正雪の一族18名も処刑され、計画に加担した主だった者は全員処刑または自害となった。
徳川頼宣への追及
幕閣はこの機会に徳川頼宣の力を抑え込もうと、頼宣を江戸城へ召喚した。
正雪が所持していた頼宣の印判が押された書類を見せて、頼宣を追及したのである。
この追求に対し、頼宣は
「誠に御家(将軍家)のために慶賀に堪えぬ、もしも正雪が外様大名の名を借りたのであれば、安心は成りがたい。しかし、御家の血脈たるそれがしの名を借りるのであれば、いよいよ御家万歳の兆候である。」
と述べた。
将軍一族の頼宣の名前を使って陰謀を企てたのは、それだけ徳川家の支配が強固になっている証拠であるから、めでたいことだ
と言ったのだ。
しかしこれだけで幕閣からの疑いが晴れた訳ではなく、頼宣は10年間幼少の将軍を補佐するという名目で江戸に置かれ、監視されることになった。
結果的には頼宣の政治生命はこれで絶たれ、幕閣の思う通りに事態は進んだ。
幕府の方針転換
正雪の陰謀(慶安の変)が起こった原因は、多くの大名が減封・改易されたことにより、浪人の数が激増してしまったことである。
幕閣たちは浪人たちの対応について話し合いを重ね「江戸から浪人を追放する」などの案も出たが、なかなか浪人問題の結論は出なかった。
すると翌年の9月13日に、新たな浪人たちによる事件が起こった。
崇源院(徳川秀忠正妻)の27回忌が上野の増上寺で行われることを利用し、増上寺に放火して財宝を奪い、幕府の高官たちを襲撃するというものであった(承応の変)
増上寺で浪人たちと町奉行衆が争い負傷者が多く出たが、幕府は主だった者を捕縛して処刑し鎮圧した。
この事件後、幕府は浪人たちへの監視を強化することにした。
全ての浪人に住居の登録を義務づけ、寺院に住んでいる者は寺社奉行に、市中に居る者は町奉行に、江戸の近郊にいる者は代官に届けを出させた。
幕府は浪人の人数と所在地を把握して陰謀の予防に努めたのである。
また、改易によって浪人が激的に増えたので、その根本原因である改易を減らすために、末期養子(大名が亡くなった時に後継者がいなくても直前に養子をとって家を存続させること)を認め、各藩には浪人の採用を奨励した。
おわりに
由井正雪の乱によって幕府は方針転換をして改易が減り、浪人の増大は緩やかになった。
全ての浪人たちは住居の登録が義務付けられて、事件の予防や調査もやりやすくなった。
これによって逆に幕府の基盤は安定し、武断政治から文治政治への変換を迎えることになるのである。
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