江戸時代

新陰流の四天王・奥山公重 「徳川家康の剣術指南を務めた海内無双の兵法者」

奥山公重とは

新陰流の四天王・奥山公重

新陰流流祖 上泉信綱

奥山公重(おくやまきみしげ)は、剣聖(けんせい)と名高い上泉信綱(かみいずみのぶつな)に入門し、たった2年ほどの間に「新陰流(しんかげりゅう)」の的伝(てきでん・免許皆伝)を得た剣豪である。

奥山公重は学んだ「新陰流」を元に奥義を極めて自身の流派「奥山新影流(おくやましんかげりゅう)」・「奥山流(おくやまりゅう)」を創始した。

今回は、徳川家康にその実力を認められ「海内無双(かいだいむそう)の兵法者」と呼ばれた奥山公重について解説する。

出自

奥山公重は大永6年(1526年)三河国の三河亀山城主・奥平貞能の家臣である奥平貞久の七男として生まれ、名は孫次郎定国といった。

奥平家は当初、今川義元に仕えていたが桶狭間の戦いで義元が討たれると今川家から徳川家康についた。その後、武田の勢力が増すと隠居していた奥平貞能の父が武田信玄につく。
その裏で奥平貞能は密かに家康と密通し、信玄が亡くなるとすぐに徳川家に帰属するなど、孫四郎の奥平家は戦国乱世の荒波に翻弄されていた。

幼き頃から剣術を好み、修練に明け暮れた日々を送ったことから「三河では奥平孫次郎定国に及ぶ腕前の持ち主はいない」と評判になり、剣の腕は三河随一と言われるほどになった。
※ここからは「奥山公重」または「公重」と記させていただく。

さらに剣術の高みを目指した公重は、兵法修行に出ることを決意する。

入門

新陰流の四天王・奥山公重

上泉信綱 群馬県赤城神社 草の実堂撮影

念流(ねんりゅう)」「陰流(かげりゅう)」「新道流(しんとうりゅう)」を修めて独自の流派「新陰流(しんかげりゅう)」を創始した、上泉信綱(かみいずみのぶつな)という物凄く強い剣豪がいた。

上泉信綱は元々大胡城主であったが、北条氏康の攻撃で開城させられてしまい、その後は長野業正とその子・業盛に仕えて武田信玄・北条氏康の大軍相手に奮戦し武功を挙げるなど活躍したが、仕えていた長野家が滅亡してしまう。

長野家滅亡後、信玄が信綱の剛勇振りを認めて仕官するようにと要請したが、信綱はその申し出を断り「新陰流」の普及のために甥・疋田農五郎(ひきたのうごろう)らと諸国流浪の旅に出ることを選んだ。

その時期、信玄が信綱を甲府に招いたと聞いた公重は、居ても立っても居られずに甲府に赴き、信綱に入門を願い出たのである。

「新陰流」では多くの入門志願者がいたため、その実力を見るために信綱の甥・疋田農五郎が最初に相手をする。
「新陰流」で独自に作った「袋竹刀」で公重は農五郎と試合を行い、信綱は公重の実力を見抜き、その場で入門を許可したのである。

入門を許された公重は「新陰流」の修練に真摯に取り組み、信綱が甲府を離れて高山に1年ほど滞在する時も一緒に随行するなど、寝食を共にしながら持ち前の才能を開花させた。

やがて公重は疋田農五郎・丸目蔵人・神後宗治と共に「新陰流の四天王」と呼ばれるようになり、信綱から的伝(免許皆伝)を得た公重は信綱と別れて三河国に戻った。

海内無双の兵法者

三河国に戻った公重は信綱から教わった「新陰流」をさらに深めるべく三河国の奥平明神(現在の浜松市の奥山神社)に籠って剣術の鍛錬に没頭した。

修業の末、夢の中で神託を得た公重は自身の姓を「奥山」とし、流派を「奥山新影流」「奥山流」と称した。
公重は「海内無双(かいだいむそう)の兵法者」と呼ばれ、公重の元には多くの入門者が集まった。

海内無双とは、「この世で比べる人がいないほど優れている」という意味で、公重は号を「休賀斎(きゅうがさい)※急加斎とも」と称した。

家康の剣術指南役

新陰流の四天王・奥山公重

姉川の戦い

元亀元年(1570年)織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の「姉川の戦い」において、家康の家臣・奥平信昌という人物が2騎の騎馬武者をあっさりと切り落とした。

家康は奥平信昌の武勇を褒め称えて「剣は誰に学んだのか?」と尋ねると奥平信昌は「奥山流」と答えた。
すると家康は「おそらく、休賀斎に学んだのであろう」と言ったという。

これがきっかけとなって公重は家康に召し出されて仕官することになる。
家康から「公」の一字を賜って「奥山公重」と改名し、家康の剣術指南役を7年間努めることになった。

公重の剣術指南は厳しかったと言われており、時には家康が失神するほどの厳しい修業もあったという。

この功によって公重は天正2年(1574年)に御台所御守役(築山殿付き)を命じられた。

その後、病のために到仕して旧主・奥平貞能のもとに戻った。
※公重は家康の最初の剣術指南役だとされているが、家康の最初の剣術指南役は「有馬新道流(ありましんとうりゅう)」の有馬満盛だとされている。

弟子たち

公重は慶長7年(1602年)77歳で亡くなったが、多くの門弟を残し「奥山新影流」「奥山流」の道統は高弟・小笠原長治(おがさわらながはる)が継承した。

小笠原長治は、公重の門弟の中で一番強く、明に渡って中国武術の「柔術」を学んで帰国し、幻の秘技「八寸の延金」を編み出して自身の流派を「真新陰流(しんしんかげりゅう)」と称した。

日本に帰国してから多くの剣客と立ち会ったが、誰も長治には勝てず、「上泉信綱でさえも八寸の延金には敵わないだろう」と語る者がいるほどの剣豪であった。

長治には2人の高弟がいて、神谷伝心斎は「直心流」を、もう1人の針ヶ谷夕雲は「無住心剣流」を興した。
神谷伝心斎から継承した高橋重光が「直心正統流」を、高橋重光を継承した山田光徳が「直心影流」を興した。

つまり公重は「奥山新陰流」→「真新陰流」→「直心流」→「直心正統流」→「直心影流」、さらに「奥山新陰流」→「真新陰流」→「無住心剣流」といった流派の基礎を作り、これらの流派は江戸時代中期から幕末にかけて盛んに学ばれたという。

おわりに

奥山公重は剣聖・上泉信綱とは2年ほどしか弟子として寝食を共にしていない。

新陰流四天王の中では一番弟子の期間が短かったが、「海内無双の兵法者」と呼ばれ、多くの優秀な門弟が集まった。

ただ「海内無双の兵法者」と言われた割には、派手な逸話がほとんど残ってはいない。

しかし、奥山公重の系統から多くの流派が生まれ、それらの流派は上泉信綱の師であった松本政信を始祖、二代を上泉信綱、三代を奥山公重、四代を小笠原長治としたことで発展していった。

奥山公重のおかげで江戸時代中期から幕末にかけての剣術ブームがあったとされ、剣術界発展の重要な人物であったことは間違いない。

 

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コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2022年 6月 29日 6:32am

    徳川家康の剣術指南役は柳生宗矩ってイメージが強かったがこんな剣豪がいたんだ。
    結果的に剣聖・上泉信綱の新陰流の流れをくむ人が天下人の剣術指南をしたんですね。
    逆に上泉信綱ってすごくないですか?

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