江戸時代

「滅びゆく徳川幕府に殉じた忠臣」 川路聖謨(かわじとしあきら)

壮絶な自決

川路聖謨(かわじとしあきら)

※川路聖謨

川路聖謨(かわじとしあきら)は、江戸時代末期の幕臣であり低い身分から御家人、旗本となって様々な奉行職を歴任した人物です。

川路は幕末にあって長崎へと来航したロシアのプチャーチンとの交渉にあたり、日露和親条約の締結を通じてロシア側からもその人望を評価されたと伝えられています。

川路はその生涯を壮絶な自決で閉じました。

奇しくもその日は慶応4年(1868年)3月15日で、新政府軍による江戸への総攻撃が予定されていた日でした。

既に病床にあった川路の自決は、戦の足手まといになることを嫌った為とも、滅びゆく幕府に殉じた為とも言われており理由は定かではありませんが、割腹の上、拳銃を用いたものと伝えられています。

仙石騒動で立身

川路は享和元年(1801年)に天領であった豊後の日田で父・内藤吉兵衛の長男として生まれました。父の吉兵衛は日田の代官所で務めた後に江戸に上り、幕臣である「御徒(おかち)」株を得て幕臣の内藤家に入った人物でした。

その後、川路は、文化9年(1812年)に同じく下級の幕臣であった川路家へ養子として入ります。

その5年後の文化14年(1817年)、川路は勘定奉行所の下級の資格試験であった筆算吟味に受かると、翌文政元年(1818年)に勘定奉行所の下級幕吏へと登用されました。

その後、川路は支配勘定役から御勘定役に昇進して幕府の旗本となります。次いで寺社奉行吟味物調役に任じられていた際に、出石藩のお家騒動であった仙石騒動の処置を担当しました。その一件の顛末によって課題の処理能力を評価された川路は、勘定吟味役への抜擢を受けました。

以後川路は、佐渡奉行、小普請奉行、普請奉行を歴任して幕閣に重きをなす人物となっていくのです。

勘定奉行への就任

川路は、嘉永5年(1852年)の52歳の時に勘定奉行に任じられると、兼任で海防掛も担当することになりました。

こうして幕末の難しい時期に国際間の条約を預かる立場となりました。

その出自から、最下級の役人として出仕して3000石格の勘定奉行までに上り詰めた川路の才は窺えますが、世襲による役職への登用が多かった時代にあって、ここまで昇進したことは稀有な例と考えられます。

川路聖謨(かわじとしあきら)

※プチャーチン Putyatin

翌嘉永6年(1853年)に浦賀にアメリカのペリーが来航した後、今度は長崎にロシアのプチャーチンが来航しました。

この対応に、幕府は条約交渉の代表として川路を派遣しました。

日露和親条約と左遷

川路は、翌年の嘉永7年(1853年)に伊豆の下田においてプチャーチンと日露和親条約を締結しました。

このときの条約でも日露両国の国境をどこにするかという問題が浮上し、エトロフ島とウルップ島との間を国境としました。

今も日本政府はこの締結日である2月7日を「北方領土の日」と制定して川路の功績を顕彰しています。

川路は幕臣として外国の事情に明るい開明的な数少ない人物でしたが、幕末の政治状況の中で将軍の継嗣問題に際して、一橋慶喜(後の徳川慶喜)を推す一橋派に与していました。

よって、大老に就任した井伊直弼から疎んじられて、安政の大獄によって閑職への左遷を余儀なくされます。

川路聖謨の最期

川路は、文久3年(1863年)に再度外国奉行と勘定奉行を命じられましたが、力を失いつつあった幕府の中で思うに任せず、また体調の悪化もあってか半年も経ずに辞任しました。

その後にすぐに中風で倒れると、以後政に関与することはありませんでした。

そして慶応4年(1868年)3月15日、江戸城の無血開城を迎えた日に、川路は自宅にて自刃して果てました。享年68でした。

参考文献 : 落日の宴 勘定奉行川路聖謨(上)

 

草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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