国友一貫斎とは
国友一貫斎(くにともいっかんさい)とは、江戸時代の腕の良い鉄砲鍛冶職人であった。
技術力が高く空気銃や反射望遠鏡を製作して天体観測を行い、そして飛行機の設計まで行ったことから「江戸のダ・ヴィンチ」と呼ばれた人物である。
驚きのアイデアと技術で人々を驚かせた鉄砲鍛冶の国友一貫斎は、日本の近代科学技術の礎を築いたとされている。
今回は国友一貫斎の生涯についてわかりやすく解説する。
出自
国友一貫斎は、安永7年(1778年)近江国国友村(現在の滋賀県長浜市国友町)の幕府の御用鉄砲鍛冶職の家に生まれた。
幼名は「藤一」、諱は「重恭」、号は「一貫斎」、ここでは一般的に知られる「一貫斎」と記させていただく。
近江国国友村は、堺や根来と並ぶ火縄銃の一大産地だった。
一貫斎の家は国友村で年寄脇(年寄の次席)を努める御用鉄砲鍛冶の家の一つで、「辻村家」とも呼ばれた。
初代・辻村(国友)藤内は美濃国の鍛冶師の出身で、永世年間に近江国国友村に移り住んだ。
その跡を継いだ2代目以降の当主の多くが「国友藤兵衛」と名乗った。
一貫斎は、その9代目にあたる。
他の国友鍛冶職人は「重当」の銘を用いるのが通例だったが、藤兵衛家のみ「能当」という銘を用いた。
「能当」とは、鉄砲の弾が「能く当たる」という意味から来ている。
そんな鍛冶職の家で生まれた一貫斎は、わずか9歳で父に代わって「藤兵衛」と名乗り、17歳で鉄砲鍛冶の年寄脇の職を継ぐほどの高い技術力を持っていた。
彦根事件
一貫斎が34歳の時、国友家は彦根藩から高い技術力が認められて御用掛となるように命ぜられ、彦根藩から200目玉の大筒を作るよう注文を受ける。
しかし、同じ国友村の年寄四家はこれに異議を唱えた。
年寄四家からすれば、自分たちを差し置いて一貫斎だけが注文を受けることが不服だったのだ。
元々、国友村の鉄砲鍛冶の間には古くから四人の年寄を中心に「惣鍛冶」とか「仲間」と呼ばれる同業組合が存在しており、年寄が受注を受けてそこから割り振るという決まりがあった。
そこで年寄四家は「この藩命は認められない」と藩に訴えたのである。
年寄四家の反発が癇に障ったのか、彦根藩は国友村四家を藩内出入り禁止とし、国友村への鉄砲注文を一切禁止した。
これによって国友村は仕事ができなくなってしまったために、怒った年寄四家はなんと江戸の幕府に直接訴えたのである。
一大争議となったこの事件は「彦根事件」と呼ばれ、6年間にも及ぶ抗争に発展してしまう。
一貫斎は文化13年(1816年)に証人として江戸に呼び出され、長期滞在を余儀なくされた。
最終的には一貫斎の高い技術力が認められ、文政元年(1818年)に年寄四家側の敗訴となり、一貫斎は彦根藩の御用掛として飛躍していくことになるのである。
空気銃を作る
証人として江戸に滞在していた時、一貫斎は膳所藩に仕えていた眼科医・山田大円に出会い、オランダから伝わった空気銃の存在を知る。
文政元年(1818年)に、一貫斎は山田の自宅で実際の空気銃を手に取る。
この空気銃は丹後峰山藩主・京極高備を通して山田が借り受けたものだったが、手にした空気銃は破損しており使用は不可能だった。
しかし一貫斎は短期間でそれを修理し、更に自らの手で新たな空気銃の製作に着手したのである。
翌年の文政2年(1819年)、空気銃の改良型である「気砲」の発明に成功し、後に20連発の早打ち気砲も制作する。
この気砲は大好評で、多くの大名がこぞって注文したという。
しかし暗殺に使用される恐れがあるとして、後に幕府によって生産中止となってしまった。
反射望遠鏡を作る
文政3年(1820年)一貫斎は尾張犬山藩附家老・成瀬正寿宅で、オランダ製のグレゴリー式反射望遠鏡を目にする。
この当時、鏡を使用しない屈折望遠鏡は日本国内で自作されていたが、国産の反射望遠鏡はなかった。
そして一貫斎は、自らの手で国産の反射望遠鏡を作ることを決意する。
翌年の文政4年(1821年)江戸から戻った一貫斎は、反射望遠鏡の研究に力を入れた。
天保3年(1832年)に本格的に反射望遠鏡の作成に取り掛かり、翌年の天保4年(1833年)には国産第一号となる反射望遠鏡を完成させた。
一貫斎が作った望遠鏡の精度は凄まじかった。
口径60mmに60倍の倍率で、この望遠鏡で月の表面や水星、太陽の黒点を観測し、緻密な観測記録を残したために幕府天文方の役人たちは驚愕したという。
現在ではもっと高性能の望遠鏡はあるが、一貫斎の鏡の精度は2000年代に市販されている望遠鏡に匹敵するレベルだと言われ、100年以上が経過した現在でも劣化が少ないという。
現在、一貫斎の作った反射望遠鏡は上田市立博物館と彦根城博物館に残されている。
飛行機も作ろうとした?
一貫斎は「阿鼻機流(あびきる)」という飛行機の開発も考案しており、設計図「阿鼻機流 大鳥秘術(おおとりひじゅつ)」という冊子が発見されている。
現存する飛行機の設計図としては国内最古で、縦24.3cm・横16.8cmで計10ページに渡る。
木馬に乗った人間がペダルを踏んで翼を羽ばたかせて飛ぶ構造で、横幅7間4尺(約13.3m)ほどの大きさであった。
鳥型飛行機の部分の形状が彩色された絵で書かれ、「檜板を皮にて包む」「板を次第に薄く削る」など材質や加工法も説明されている。
到底飛行できるものではなく実用化には至らなかったが、一貫斎以外に江戸時代に飛行機の図面を作成した日本人はいないとされている。
その他の発明
従来、火縄銃の製作は師匠から弟子へ伝える秘事として扱われ、弟子入りの時も決して技法を人に明かさないという起請文を提出するのを常としていた。
しかし一貫斎は、文政元年(1818年)前老中・松平定信の依頼で「大商御鉄砲張立製作」という本を著したことで、戦国時代から続いていた常識を打ち破った。
この頃、ロシアなどの外国船が日本近海に現れ、通称を望むほかに小規模な衝突を繰り返していることを松平定信は憂慮していた。
日本の国防・海防のためには、何よりも火器の充実が必要と考え、火縄銃の大量生産を行なえるようにするため、一貫斎にその製作方法の公開を求めたのである。
この本があれば、鍛冶の心得さえあれば如何なる大筒でも製作することができたという。
元々鉄砲の製作方法は古来より伝わってはいたが、鉄砲鍛冶によって火縄銃製作のマニュアルが作られたのである。
この著作は一貫斎が優れた技術者であると同時に、文才・絵心にも恵まれた人物であったからこそ実現できたのである。
文政7年(1624年)には神社に奉納するための「神鏡」を改良・考案し、国友日吉神社に奉納している。
文政9年(1826年)には再度松平定信の命で、鋼鉄製の連発式クロスボウである「鋼製弩弓(はがねせいどきゅう)」、現在のアーチェリーに類するものを発明した。
文政11年(1828年)には照明器具の一種である「玉燈(ぎょくとう)」と、墨の濃さが調節できる万年筆のような(現在の筆ペンのような)「御懐中筆」を発明している。
おわりに
江戸時代は、天才と呼ばれる人たちが数多く誕生していたが、国友一貫斎は多くの発明品を生み出し多才であったことから「江戸のダ・ヴィンチ」と呼ばれた。
しかも50歳を過ぎた高齢になってから好奇心を持ち、様々な発明品を世に出したのである。
国友一貫斎は63歳で故郷・国友村で亡くなったが、彼の技術力が余りにも突出していたため、残念ながら一貫斎の科学・技術は地域で受け継がれることはなかった。
一貫斎は確実に日本近世の科学・技術力の水準を総体的に押し上げた人物であると言える。
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