大野弁吉とは
大野弁吉(おおのべんきち)とは、江戸時代後期に加賀前田藩百万国の中心地・金沢の大野において、数々のものづくりの技術で名を残し「加賀の平賀源内」と称された、天才からくり師&発明家である。
数々のからくり人形の他に、竹を始めとする木材や貝殻、象牙など多種多様な材料で作った工芸品のデザイン性や精密さは、現代を生きる私たちをもうならせる。
また、時計・ランプ・ピストル・カメラといった、当時の科学技術の最先端のものを作ったという。
近年の研究によって大野弁吉の「科学者・エンジニア」という顔が浮き彫りになった。
だが、同じからくり師として同年代に活躍し、後の「東芝」の創始者となった田中久重が天下に名を知らしめたのに対し、大野弁吉は名声や名誉、お金に無頓着で、生涯清貧生活を送ったという。
今回は、マルチな才能を発揮したことで「加賀の平賀源内」と称された天才からくり師・大野弁吉の生涯について解説する。
出自
大野弁吉は、寛政13年・享和元年(1801年)京都の五条通りに住む羽根細工師の息子として生まれた。
幼い頃からとても器用であった弁吉は、父が作るからくり人形などを一目見ただけで再現してしまったという。
弁吉の少年期はあまり家庭が裕福・幸福では無かったらしく、比叡山・延暦寺に努めていた叔父・佐々木右門の養子になった。
早くから四条派の絵を学び、彫刻に才能を現した弁吉は、どのような経緯かは不明だが文政3年(1820年)20歳頃に長崎に行き、オランダ人から蘭学(語学・西洋医学・理化学・天文学・写真術・航海術・絵画・彫刻)などを学んだ。
また、対馬経由で当時の技術先進国である朝鮮にも渡り、砲術や算術なども学んだという。
長崎でのオランダ人の師は、あの有名なシーボルトではないかという説もある。
文政11年(1828年)弁吉はオランダ商館出入りの従僕となり、商館付オランダ人医師・シーボルトの身辺雑用をしていた。
同年9月、シーボルトが帰国する直前、シーボルトの所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを送った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか、十数名が処分される「シーボルト事件」が発覚する。
シーボルトは翌年の文政12年(1829年)に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けたが、弁吉はオランダ商館職員の名簿に名がなかったために処分されずに退避し、京都に戻ったとされている。(※あくまでも説で真偽は定かではない)
加賀の大野村に移住
長崎で最先端の蘭学の様々な知識を貪欲に吸収した弁吉は、文政12年(1829年)に京都五条通橋下の中村屋八右衛門の長女・うたの婿となり、奇物師として中村屋弁吉と名乗っていた。
翌年の文政13年(1830年)弁吉が30歳の時に妻・うたの郷里である加賀国石川郡大野村(現在の石川県金沢市大野町)に移り住み、大野村にいたことから「大野弁吉」と呼ばれるようになった。
生活用品や指物を作る職人として働くかたわら、「からくり半蔵」と呼ばれた細川半蔵の「機匠図彙(からくりずい)」を読んで、独学でからくり人形を始め次々と発明品を、からくり師として世に送り出すことになる。
からくり人形
隣村の宮腰(現在の金沢市金石長町)の豪商・銭屋五兵衛が弁吉の博学とからくり師としての腕を見初め、二人は相当な親交をもつようになり銭屋五兵衛によって弁吉のからくり人形や発明品が知れ渡る。
銭屋五兵衛は様々な発明の金銭的援助を申し出たが、弁吉は何故かそれを断ったという。
弁吉のからくり人形の代名詞と言える作品が「茶運び人形」と「段返り人形」である。
「茶運び人形」は、約6cmの人形がしずしずとお茶を運び、茶碗をお盆から持ち上げるとピタッと止まり、再び茶碗をお盆に戻すと、くるりと踵を返して元の所に帰って行くという人形である。
その済ました顔が、少し小僧たらしく見える位に滑らかな動きを行い、おじぎのような人間らしい仕草もする。
着ている着物の裾をめくると、人間臭い動きをしていた人形とは思えないシステマティックな構造になっており、見た人は度肝を抜かれたという。
電池のような動力ではなくゼンマイ仕掛けで動いており、当時は鯨のひげを材料にしてバネやゼンマイの動力を作っていた。
人形がくるりと踵を返して戻ったり止まったりする仕掛けは、歯車に「カム」があることで可能となっており、西洋の機械時計を応用して作られたとされている。
「段返り人形」は、階段のようになっている段差を、バク転をしながら降りて行く人形である。
この人形はゼンマイで動く仕掛けではなく、なんと人形自身の重さで降りて来る仕掛けとなっている。
降りて来る人形の中には砂時計の形をした筒が入っており、その中に水銀を入れ、人形の頭が下に向くと水銀が移動する。
つまり重心が移動することによって、バク転をしながら段差を降りるという構造になっている。
この他にも「ねずみの宝運び」「三番叟」などのからくり人形も有名である。
様々な発明品
弁吉の発明品はからくり人形に留まらずバラエティー豊富で、鶴の形をした模型飛行機を飛ばして人々を驚かせた。
この他にも時計・ランプ・ピストル・発火器(今のライター)・木製カメラ・エレキテルといった、当時の科学技術の最先端となるものを数多く発明した。
特にカメラは日本で初めてだとされ、世界で初だった可能性もあるという。
これらの発明品は同じ時代に活躍した「からくり儀右衛門」と呼ばれた田中久重(たなかひさしげ)の技術に匹敵すると言われた。
また弁吉は、「一東」や「鶴寿軒」と号して木彫・ガラス細工・塗り物・蒔絵・陶芸・革製品・花火なども制作した。
加賀藩のエンジニア
近年の研究によって、弁吉の科学者という新たな側面が浮かび上った。
加賀藩が設置した洋式兵学校「壮猶館」の助手として、弁吉はその才能をいかんなく発揮していたことが分かったのである。
この洋式兵学校では、アドレナリンの発見で知られる高峰譲吉の父や砲術方の佐野鼎といった、加賀藩の頭脳とも言えるメンバーが教鞭を振るっていた。
弁吉は、様々な発明品の手腕を買われて「エンジニア」として科学技術の基礎を教え込んでいったという。
後に弁吉に学んだ弟子たちは近代科学技術の発展に寄与し、石川県の礎を築いたと言っても過言ではない。
清貧生活
弁吉は西洋医学の医師として薬の処方も行い、鉱物や天文学にも通じていて地動説を唱えるなど、ジャンルを問わない非凡な人物であった。
しかし弁吉は、豪商の銭屋五兵衛の援助を断り生涯清貧生活で破屋に住み続けた。加賀藩の洋式兵学校「壮猶館」の舎密方御用手伝いに就任したが、この時も藩主からの20人扶持での仕官の依頼を固辞したという。
弁吉は仕官の道よりも自由に好きなものを発明する道を選び、金儲けよりも発明家として探求を貫いた生活を送り、明治3年(1870年)69歳で没した。
おわりに
大野弁吉は、後の東芝の創始者となった田中久重に匹敵する発明家と評されたが、余り世間には知られてはいない。
しかし、弁吉の独創的な発明は現代にも残り、彼が育てた弟子たちは新しい明治という時代の中で幅広く活躍した。
「加賀の平賀源内」こと、天才からくり師・大野弁吉は、金沢及び石川県では伝説の人物となっている。
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