戦国時代の最終的な覇者、徳川家康。
その戦いぶりはどのように評価されているのか。軍師としても改めて評価されるべき、という最新評価をたどってみる。
実は人気の低い家康
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という3人の天下人のなかで、もっとも人気が低いのが家康である。
理由は信長、秀吉が苦労して築いてきた天下獲りの道のりを、家康が最後に「棚から牡丹餅」のようにかっさらっていった印象が非常に強いからだろう。
家康と合戦にまつわるエピソードについても、あまり芳しいものはない。
元亀(げんき)3年(1572年)12月、家康は織田信長とともに三方ヶ原で武田信玄と戦うが、あえなく敗北を喫してしまう。
家康は逃亡の途中で、あまりの恐怖に脱糞したという逸話も有名だ。これも家康の人気を下げる要因となった。
軍才の原点
慶長16年(1614年)に始まった大坂の陣では、家康が真田信繁(幸村)に苦しめられ、逃げ回ったエピソードが談話として披露された。
家康が苦戦したのは事実であるが、醜態をさらして逃げたというのは、まったくの創作である。
このように家康と合戦の逸話は史実に基づかないものもあり、おもしろおかしく伝わっているものも多い。では実際はどうだったのか。
家康の軍事的な才能の源は、駿府における今川氏の人質時代に求められる。
当時、今川義元のもとには「軍師」として名高い「太原雪斎(たいげんせっさい)」が活躍していた。
雪斎は今川氏の政治顧問的な立場としても貢献しており、まだ幼かった家康は雪斎から学問の手ほどきを受けたといわれている。
義元は公家文化に染まっていたといわれるが、文化や学問を重んじる気風があったのは事実である。
武勇は負けず
恐らく家康はそうした好学の影響を受けており、大変な読書家であったことが知られている。
『論語』などの中国の古典はもとより、『吾妻鏡』も愛読書のひとつであった。吾妻鏡とは鎌倉時代の歴史書である。
無論、兵法書として有名な「孫子」なども学んでいただろう。このような学問への態度は、家康の軍事的な才覚を高めたはずである。
先ほど家康の醜態を披露したが、もっとも重要なことは実は武芸に通じていたことであった。
剣術はもちろんのこと馬術にも優れており、後に剣豪として名高い柳生宗矩(やぎゅうむねのり)を召抱え、息子・秀忠の指南役に命じたほどである。
そして自身は武芸を磨くために鷹狩りを頻繁に行った。
家康の名誉のためにいうと、先に触れた三方ヶ原の戦いでは、武田の兵を弓矢で射殺したと伝わっている(信長公記)。
三河武士の結束
家康を支えたのは、強い結束で知られる「三河武士」だった。
彼らは家康が今川氏の人質になっても耐え忍び、いざ戦いになると命を投げ出しても惜しくないという屈強揃いである。また家康は領土の拡大に伴い、積極的に外部の武将を家臣に組み入れた。
天正10年(1582年)に滅亡した武田氏の遺臣は代表的であり、最強といわれた「赤備え(あかぞなえ)」は井伊直政に預けることになった。
直政は外様ではあったが家康の信頼が厚い武将で「井伊の赤備え」となって、戦場を駆け巡ることになる。
このように考えると、家康の軍才は改めて評価されるべきであろう。
優れた指揮官は何もしない
軍師とは、戦場で兵を動かすばかりではない。優秀な兵を集め、いかに効率よく動かして勝利に導くかが重要である。
そのためには調略も必要で、その面から見ても家康が劣っていないことが分かる。
事実上、豊臣家に反旗を翻して関ヶ原の戦いを迎えるに当たっても、西軍の武将を寝返らせるなど「ここ一番」というところでは、正攻法にこだわらずに戦う。
西軍の小早川秀秋が事前の打ち合わせどおりに寝返らないため、家康が秀秋の陣に向けて鉄砲を放ったという逸話があるが、これも創作である。
なぜなら家康は黒田長政を交渉に当たらせ、事前に寝返りを決めさせていたからであった。
戦国時代は子が親を裏切り、家臣が君主を裏切る時代であった。そんな世界に生きる中で必要な知識を身に付け、実行できたことが東軍勝利という結果からも明らかだ。
現代の軍隊においても、もっとも優れた指揮官は優れた部下を持ち、何も指示しなくても部下が自分の判断で動くという。
まさに家康は優秀な部下を持ち、彼らが各々で的確な判断ができたからこそ、天下を獲れたのだ。
最後に
家康は武芸や知略だけでなく、機運を見る才もあった。そうでなければ、棚から落ちた牡丹餅も拾えない。
天下統一の野望のためにタイミングを見計らい、老齢にしてようやく掴んだ天下。さらに江戸幕府を開いた後も大坂の陣で豊臣家を根絶やした。
このときもやはり、時代の流れに何かを見たのだろう。
参考文献 : 信長公記
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