江戸城内には500人もの坊主がいた。坊主と言っても僧侶ではなく、僧形をした武士「茶坊主」ある。
彼らは、案内・お茶くみ・掃除・ペットの世話など城内の雑用係を担っていた。
一介の雑用係でありながら、時にスパイという裏の顔をもち、大名が恐れるほどの力を有する者もいた。
今回は、剃髪の武士「茶坊主」について紹介しよう。
茶坊主とは
茶坊主は、室町時代後期から江戸時代初期にかけて、君主の近くに侍り政治的な相談役や書物の講釈など文化・教養面での奉仕を行っていた御伽衆(おとぎしゅう)の流れを組んでいる。
御伽衆とは異なり、政治的な影響力は持ち合わせておらず、僧侶の身分をもたないものの僧侶と同じ剃髪姿で職務に当たった。
袈裟はまとわず、武士のため帯刀が許されていた。
幕府儀礼のため江戸城へ登城した大名に城内の案内をしたり、控えの間で茶を供したりしているうちに、大名家や幕閣の話をもれ聞くこととなり、裏事情に詳しい情報通として大名家に重宝される存在となった。
また将軍の近くに侍り、城内のどこにでも自由に出入りできる立場から、8代将軍吉宗は茶坊主をスパイとして雇っていたという。
茶坊主の職制と仕事
江戸城内の茶坊主には、数寄屋坊主、同朋、御坊主の3つの職制があった。
一つずつ解説していこう
●数寄屋坊主
数寄屋坊主(すきやぼうず)は、若年寄配下で、旗本である数寄屋頭、御家人の数寄屋坊主組頭と数寄屋坊主からなっている。
城内では、現在の茶人の正装である十徳を着用し、脇差を差していた。
数寄屋坊主の仕事は、茶会や茶道具の管理、登城した御三家や「名家」の大名、老中・若年寄など、いわゆるVIPへの城内の案内や茶の提供を行った。
その他、宇治から江戸まで将軍に献上するお茶を運ぶ「茶壷道中」への付き添いの仕事もあった。
●同朋頭・同朋
同朋(どうほう)とは、室町時代に将軍の身の回りの雑務を担当した同朋衆の系譜を引く旗本である。
頭も含めて15人ほどで、老中・若年寄の執務室で役人への下達や連絡の取次ぎなどといった秘書的な役割をした。
また、オランダ商館長などの貴賓の案内や給仕なども務めた。
●御坊主
御坊主(おぼうず)は同胞の配下の御家人であり、禄高は20俵2人扶持であった。
勤務時には十徳を着用し、500人ほどの御坊主が江戸城本丸と西ノ丸御殿での案内や給仕にあたった。
御坊主は、表坊主と奥坊主の2つに分けられ、表坊主は表御殿で、数寄屋坊主が担当するVIP以外の大名や諸役人の案内や給仕、座敷の管理を行った。
奥坊主は、さらに中奥で任務にあたる小納戸坊主・御用部屋坊主・土圭之間坊主の3つに分けられる。
小納戸坊主は、将軍の生活用品の管理や飼っている鳥の世話などを行い、御用部屋坊主は、御用部屋で老中や若年寄から受けた伝言や文書を城内の諸役人に届けるのが仕事だった。
土圭之間坊主は、中奥と表御殿の連絡役であり、中奥の将軍の側近と表御殿にいる老中や若年寄との仲介をした。
大名家と茶坊主
大名家と茶坊主、特に御坊主は、切っても切れない関係だった。
こまごまとした作法の多い幕府儀礼で、失敗は絶対に許されない。特に将軍との謁見の場では、大名の家格に応じて何枚目の畳に座るかまで厳格に決められていた。
本丸御殿の玄関から先は大名本人しか入れず、供の者もいない。家督を継いだばかりの城内も作法も分からない大名にとって、案内や給仕をしてくれる御坊主の助けは必要不可欠だったのである。
また、御坊主は大名に部屋の貸し出しも行っていた。
御三家や名家以外の大名は、城内に専用の部屋をもたせてもらえず、幕府役人や他藩の大名との面会や昼食をとるのに困っていた。そこで御坊主は表坊主部屋の一部を大名に貸し出した。
たたみ一畳で大藩からは年に金2両、小藩からは金2分を謝礼として受け取っていた。
屏風を立てて作った小さな空間で、大名は弁当を食べ、御坊主の入れたお茶を飲んでいたのである。
副収入でぜいたく三昧
職務上の権限で中奥や表御殿内を自由にうろちょろしている御坊主たちは、大名や幕閣のサポートという仕事をしながら、大名家の裏事情や幕府の機密情報に触れることもできた。
大名たちにとって御坊主が持っている情報はとても貴重で、特に多額の出費を課せられるお手伝い普請や江戸城の門番の情報を、大名たちは喉から手が出るほど欲しがった。
そのため大名は、特定の御坊主と「御用頼」という契約を結ぶようになった。御坊主へ定期的に謝礼を支払う代わりに、老中や若年寄への取り成しや城内で便宜を図ってもらっていたのである。
茶坊主は、参勤交代の際に起きた大名家同士のトラブルの仲裁や、老中と藩士との非公式の会見を取り持ったりした。また、大名家に関する裏情報を活かして、大名同士の養子縁組や結婚相手の周旋を行ったり、婚礼の媒酌人まで務めたりする御坊主もいた。
大名にとって茶坊主は、お家存続のためになくてはならない重要な存在だったのである。
茶坊主は3、4家と「御用頼」の契約をしていたため、幕府から支給される禄をはるかに上回る報酬を受け取っていたという。
本来であれば薄給のはずの御家人が立派な家に住み、召使を何人も抱えるような裕福な暮らしをしていたのである。しかしこれが世に知られるようになると、寛政改革や天保改革の際に問題視され、御坊主の取り締まりが強化された。
しかし改革は長く続かず、江戸幕府崩壊まで大名家と御坊主の関係が壊れることはなかったという。
参考文献:戸森麻衣子『江戸幕府の御家人』
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