本居宣長とは
本居宣長(もとおりのりなが)とは、江戸時代の日本古典研究家である。
医者をやりながら「源氏物語」など日本の古典を勉強し、現存する日本最古の歴史書「古事記」を研究し、35年という歳月をかけて「古事記伝」全44巻を執筆した。
今回は日本人の心の原点を探った男、本居宣長の生涯について掘り下げていきたい。
もののあはれ
日本語は「世界一感情表現が豊かな言葉」だと言われている。
例えば、喜びを表す表現だけでも「夢心地・愉快・満足・快感・楽しい・喜ばしい・痛快・有頂天・嬉しい・舞い上がる・心が躍る」など、およそ100種類ほどあるとされている。
他にも季節感や自然現象を表した情緒ある言葉の数々があり、これは日本が誇るべき文化だと言える。
そんな日本人の美意識を「もののあはれを知る」と読み解いたのが、江戸時代の国学者・本居宣長である。
「もののあはれ」とは、平安時代の和歌によく見られる表現で、辞書では「しみじみとした深い感情」などと説明されている。
例えば、「中秋の名月」や「川面に浮かんだ桜の花びら」、などと聞くと美しい心象風景が思い浮かぶ。
本居宣長は、源氏物語などに書かれた「もののあはれ」は、日本人特有の美意識であると説いた。
そして「もののあはれ」を、人間の行動の規範や価値観にまで高めていったのである。
更に本居宣長は、1,000年以上も誰も読み解けなかった「古事記」を研究し、日本人の心の原点に迫ろうとした。
本居宣長は、その生涯をかけて漢字から伝わる日本の言葉使いを一つ一つ読み取っていったのだ。
出自
本居宣長は、享保15年(1730年)伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿仲買商である小津家の次男として生まれた。
教育熱心な母親の影響で、幼少の頃から様々な教養を身に付けた宣長は「神童」と呼ばれていた。
こんな逸話がある。
お寺で講話を聴いた15歳の宣長は、話の途中でずっと目を閉じていた。
子どもだから眠くなるのも仕方がないと冷やかされるが、その翌日、宣長は講話の内容を3.6mの巻紙にびっしりと正確に書き起こしたのである。
そして覚えていない箇所は、正直に「忘れた」と書いた。
驚異的な記憶力、理解力、誠実さを併せ持った少年だったのだ。
17歳の時には、5年半をかけて正確な日本地図「大日本天下四海画図」を起筆した。
実際に旅をしたわけでもないのに、様々な書物から情報を集めて宿場町の間の距離までも明記してあったという。
商売に関してはまるで興味がなく、江戸の木綿問屋に奉公に出たが、たった1年で商人の道を諦めて帰郷した。
松坂に戻った宣長は、家に引き籠って読書に浸った。
特に興味を抱いたのは、平安時代の和歌や源氏物語だった。
源氏物語の世界観がたまらなく好きになった宣長だが、読書だけで生活できるわけもなく、この先どうやって生きていこうかと悩んだ。
そんな宣長の姿を見た母は、宣長が23歳の時に京都に医学修行に送り出してくれた。
それから5年半、京都で医学の勉強に励むが、その間にも日本の古典文学の熱が冷めることはなかった。
京都での修行も間もなく終わろうとした27歳の時、宣長に人生を左右する出来事が起きる。
それは、宣長が学友の実家に泊まった時だった。
この時、宣長は友人の妹・草深たみ(16歳)に一目ぼれしてしまったのである。
女子の16歳は、江戸時代では結婚適齢期だ。
しかし、宣長がその想いを告げる前に、たみは他の男のもとに嫁入りしてしまった。
こうして、宣長の初恋ははかなく終わったのだった。
しかし、この失意の経験が「もののあはれ」の意味に近づくきっかけとなった。
気持ち自体に向き合え
たみへの想いを断ち切れなかった宣長は、31歳まで独身を通した。
その後、地元の名士に薦められて結婚したものの、わずか3か月で離婚している。
ある日、趣味で通っていた歌会の仲間が宣長に質問した。
「平安時代の歌人・藤原定家のもののあはれとは何でしょうか?」
宣長は、この質問に宣長は答えることができなかった。そして
「日本の古典文学で度々目にしてきた「もののあはれ」とは一体何を表現しているのだろう?」
宣長は、その意味について悩んだ。
そんな宣長のもとに、風の便りが届いた。
初恋の女性・たみが、夫と死別して実家に戻ったという。
そして最初の出会いから6年、宣長は初恋を実らせて遂にたみと夫婦になったのだ。
こうして宣長に平穏な日々が訪れた。
昼間は町医者として働き、夜は趣味で古典文学を研究した。
そして、たみと結婚した翌年の宝暦13年(1763年)宣長は遂に「もののあはれ」の意味に気づいたのである。
当時、様々な儒学者が源氏物語から道徳的意味を読み取ろうとして失敗していた。
宣長は背徳の恋を描いた源氏物語にそもそも道徳的意義などなく、そこに描かれた世界観がまさに「もののあはれ」であり、日本人独特の美意識であると論じた。
人妻となった、たみを想い続けた自らの心の動きと光源氏の背徳の恋が一致したからこそ、「もののあはれ」に近づけたのかもしれない。
宣長は恋について
「思い返すと叶わぬ恋が世の中に多いが、その気持ちをなくすことなどできない。情感のこもった歌はそういう時にこそ生まれるものだ」
と書いている。
宣長は、相手のことを想うことから生まれる感情に静かに向き合い続けたことで「もののあはれ」の意味に近づくことができたのだ。
漢意批判
「もののあはれ」を知ることに日本独自の価値観を見出した後、宣長はある疑念を抱いた。
「幕府が奨励する朱子学は中国起源の思想である。外国語である漢文を勉強すればするほど日本人の思考は中国風になってしまうのではないか?」
そして「漢意(からごころ)批判」を展開したのである。
宣長は中国や朝鮮半島の文化を否定した訳ではない。
それを学んだ日本人が、あたかもそれを自分たちが発明したかのように全ての文化に共通するものの考え方、価値観であるかのように勘違いすることを批判したのである。
古事記の研究
仏教や儒学など中国の文化が伝来する前の日本人は、一体どんな言葉を話し、何を考えていたのだろう?
宣長が研究対象にしたのは、当時は日本書紀の偽物扱いをされていた日本最古の歴史書「古事記」だった。
日本書紀は、中国の形式に合わせて漢文でまとめられた歴史書である。
一方、古事記は国内の読者を想定して、日本ならではの変体漢文で書かれていた。
それは、古の日本人が話していた言葉そのもので「誰も注目しなかった古事記を解読すれば、日本人の心の原点に近づけるのではないか」と宣長は思ったのである。
昔の人たちは、どんな言葉を話していたのだろうか?
そこで、宣長は全ての漢字を意味で理解するのではなく、どう発音するのか読み方で解明しようと決意した。
古事記の最初の文字は「天地」で、宣長は古い書物を調べて一つの仮説を立てた。
「天はあめと読む、古い書物ではあめに呼応して必ずくにという、だから「天地」は、あめくにと読んだに違いない」と考えた。
しかし、宣長は自分の考えが正しいのか確信が持てなかった。
そんなある日、江戸の高名な国学者・賀茂真淵(かものまぶち)が松坂に来ていることが分かった。
賀茂真淵は万葉集などの古典を通じて、古代日本人の精神を研究する大学者だった。
34歳になっていた宣長は、是非とも真淵の教えを請いたいと約束もないのに真淵の宿を訪ねた。
そして、古事記を解読したいという想いを語ると、何とその場で弟子入りが許されたのだ。
真淵は万葉仮名に慣れるために「万葉集」の注釈から始めるようにと指導した。
その後、二人が直接会うことはなかったが、真淵が亡くなるまでの6年半は手紙による師弟関係が続いた。
宣長は真淵とのやり取りを続けるうちに、自分の間違いに気づくようになった。
それは「天地」を「あめくに」と読んだことだった。
真淵はあめくにではなく、「あめつち」だと答えたのである。
たった一文字の漢字でも読み方が違えば意味も変わる。
宣長は何冊もの古文書を調べながら、古事記に書かれた漢字の正しい読み方を研究し続けた。
たった一夜の宣長と真淵の対面は「松坂の一夜」と語り継がれている。
それから35年、宣長が全44巻に及ぶ「古事記伝」を書き上げたのは69歳の時だった。
この本をきっかけに、日本の国語研究や宗教研究が見直されることになる。
享和元年(1801年)宣長は71歳で没した。
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