茂庭綱元とは
茂庭綱元(もにわ つなもと)とは、伊達政宗親子に92歳まで仕えた重臣である。
天下人の豊臣秀吉に「直臣になれ」と誘われ、京都に屋敷まで与えられそうになったが、伊達家に仕え続けた。
秀吉は綱元に自分の側室・香の前を授けている。(※香の前は伊達政宗に下賜されたという説もある)
政宗は、綱元と秀吉の関係を疑い、強制的に綱元に隠居を命じた。
これに怒った綱元は、香の前を連れて京都に出奔し、その際に徳川家康が本多正信を通じて家臣になるように打診したという。
しかし後に政宗は綱元を赦免し、伊達家に戻った綱元は筆頭家老として特別待遇を受けている。
今回は、2人の天下人・秀吉と家康が欲しがった伊達政宗の重臣・茂庭綱元について掘り下げていきたい。
出自
茂庭綱元は、天文18年(1549年)奥州伊達家に仕える小屋館(赤館)城主・鬼庭良直(おににわよしなお・左月斎)の嫡男として生まれた。
父の鬼庭良直(左月斎)は伊達晴宗・照宗・政宗に仕え、天正13年(1585年)佐竹氏と戦った人取橋の戦いにおいて大きな武功を上げている。
伊達軍が劣勢となり、政宗は鎧に矢1筋、銃弾5発を受けて絶体絶命の危機となった。この時、良直は政宗を逃がすために殿(しんがり)を引き受けて敵中に突入し政宗を逃がしたが、良直自身は討死にした。
そんな猛将だった父・鬼庭家の家督を、綱元は継いだのである。
後に「茂庭」と改名しているが、その経緯については後に記述する。
綱元は、奉行職に任じられて百目木城主となり、5,000石に加増された。
しかし、政宗は秀吉の小田原征伐に遅参し、奥州仕置では葛西大崎一揆を煽動していたことが露見してしまった。
そこで綱元が、秀吉へ弁明するために京都に派遣され、秀吉と政宗との折衝役を務める形となった。
秀吉にスカウトされる
秀吉は、折衝役となった綱元の才をとても気に入ったという。
文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では、綱元は名護屋城の留守居役として残り、伊達軍の兵站を担当している。
他の武将たちが食糧難で苦しんでいる中、伊達軍だけが綱元のおかげで兵糧に苦しむことはなかった。
この時、秀吉が「鬼が庭にいるのは縁起が悪い」という理由で、鬼庭綱元から茂庭綱元に改名させたという。
綱元の働きを見た秀吉は、ますます綱元を気に入り、直臣にしようとスカウトしている。
京都の伏見に綱元の屋敷を建てて下賜しようとしたが、綱元はこの申し出をきっぱりと断った。
香の前
綱元が伏見の屋敷を受け取らなかったので、秀吉は代わりに愛妾(側室)の香の前(こうのまえ)を与えている。
彼女は、浪人の高田二郎右衛門の娘で名を「種」と言ったが、その美貌を秀吉に見初められて愛妾となり「香の前」と呼ばれた。
実はこの話には諸説があり、綱元が秀吉との囲碁勝負で勝ったためにその褒美として賜ったという説や、香の前を賭けて囲碁の勝負をしたという説もある。
さらに文献によっては秀吉と囲碁をしたのは綱元ではなく、本当は伊達政宗で、香の前は秀吉から政宗に下賜されたという説もある。(※桑田忠親『豊臣秀吉研究』)
この説では、香の前と政宗の間に、慶長3年(1598年)に女子・津多が生まれ、慶長5年(1600年)男子・又治郎が生まれたが、慶長7年(1602年)に政宗が綱元に香の前を下賜し、2人の子どもは綱元の実子扱いとなったとされている。
どの説が本当なのか真相は不明となっている。
突然の隠居命令
ようやく異国(朝鮮)の地から解放されて無事に帰還した政宗だったが、「秀吉が綱元と親しく、秀吉の直臣に」という噂を耳にして疑心暗鬼になり、次第に綱元を疑うようになった。
文禄4年(1595年)、政宗は綱元に対して息子・良綱に家督を譲ることを迫り、突然綱元は隠居に追い込まれた。
しかもこの時、政宗が綱元に与えた隠居料はたったの100石しかなかった。それに加えて綱元が隠居料以外の収入を得た場合は、良綱が相続した茂庭氏の本領5,000石を没収するという、何とも厳しい条件が付けられたのである。
この突然の処遇に憤慨した綱元は、伊達家から出奔し京都に向かったという。
※この時に、京都に香の前を一緒に連れてったという説と、政宗が綱元から香の前を奪ったという説もある。
家康にスカウトされる
綱元の現状を聞いた徳川家康は、重臣の本多正信を通して直臣への誘いをかけた。
しかし綱元は、政宗から奉公構(ほうこうかまい)が出されており、この話は破談となった。
奉公構とは、武家が家中の武士(家臣)に対して科した刑罰のようなもので、将来の他家への奉公が禁じられることである。
有名な例としては黒田長政が後藤又兵衛を奉公構にしている。後に又兵衛を仕官させようとした他家と黒田家が揉め、家康が仲裁している。
直臣にはできなかったが、家康は綱元の境遇にいたく同情し、中白鳥毛槍・虎皮の鞍覆・紫縮緬の手綱を贈り、さらに当座の資金として関八州の伝馬10疋の朱印状と永楽銭200貫文を与えたという。
家康も綱元を高く評価していたのだ。
伊達家に戻り、特別待遇
隠居させられた綱元は、慶長2年(1597年)政宗に赦免されて伊達家に戻った。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、綱元は最上軍の援軍第一陣として別動隊を率いている。
同年末に隠居料として1,100石を与えられ、翌慶長6年(1601年)政宗が上洛すると仙台城の留守居役を務め、更に評定役にも就任した。
6人衆の奉行職のその上に立ち、伊達家の治世の指導・監督役となった。
慶長7年(1602年)香の前を政宗から下げ渡され、2人の子どもは綱元の子として育てられることになった。(※前述したように真相は不明)
政宗の右腕としては片倉小十郎景綱が有名だが、片倉小十郎が白石城主となり政宗の側から離れた後は、補佐役が務まるのは綱元以外にいなかったとされている。
その証拠に、綱元は城中での駕籠の仕様が許され、政宗の留守中は政宗専用の鷹場の仕様も認められるという特別待遇を受けていた。
その後、政宗の五男・宗綱の後見役を命じられ、慶長19年(1614年)大坂冬の陣では長男・秀宗の陣に属した。
慶長20年(1915年)秀宗が伊予国宇和島10万石を与えられると、綱元は息子・良綱と共に宇和島藩の統治機構の立ち上げに携わり、同年4月には宇和島城から大坂夏の陣に出陣したという。
綱元の逸話
人取橋の戦いで、綱元の父・左月斎を討ち取った窪田十郎は伊達軍に捕らわれたが、綱元はなんと「虜囚を斬るのは士道に悖る」として赦している。
これに感服した窪田は、綱元に願い出て家来になったという。
茂庭家は代々長寿の家系であった。
それを知った秀吉は、その秘訣を知りたくて綱元にあれこれと質問をした。
すると綱元は「日頃から米粉を湯に溶いたものを飲んでいる」と答えた。
秀吉はこれを「石見湯」と名付けて飲むようになったという。
おわりに
伊達政宗が寛永13年(1636年)に死去すると、綱元も政務を離れて隠遁生活に入り、寛永17年(1640年)5月24日に享年92で生涯を閉じた。
この時代に92歳まで生きたことから、評判通り本当に長寿の家系であった。
数えきれないほどの人物を見てきたであろう、天下人の秀吉と家康にスカウトされたということは、相当な人物であったことは間違いないだろう。
茂庭綱元、豊臣秀吉、香の前、伊達政宗、この4角関係の真相は闇のままである。
この記事へのコメントはありません。