天愚孔平とは
天愚孔平(てんぐこうへい)とは、江戸時代中期から後期にかけて「江戸随一の大ボラ吹きの奇人」として知られた人物である。
彼は松江藩江戸詰めの300石取りの武士であり、医者・儒学者・書家としても高名だった。藩医としての役割に加え、その博識さから松江藩内で一目置かれる存在であった。
孔平は奇妙な格好で神社や仏閣を訪れ、「自分の名前が書かれた千社札を貼って帰る」という奇行を繰り返していた。この行為がきっかけとなり「千社札の元祖」とも言われるようになった。
今回は「千社札の元祖、江戸随一の大ボラ吹きで奇人」と呼ばれた、天愚孔平の生涯について掘り下げていきたい。
大ボラ吹きの名前
天愚孔平は、享保18年(1733年)に松江藩松平家の藩医の息子として江戸の麹町で生まれた。
本名は萩野信敏(はぎののぶとし)、通称は「喜内(きない)」で、「鳩谷(きゅうこく)」という号でも知られていた。彼は出雲国松江藩松平家の300石取りの江戸詰めのれっきとした武士である。ここでは「天愚孔平」または「孔平」として記す。
孔平の生家は代々藩医を務めていたため、彼も医師であり、さらに儒学者として多くの著書を残し、優れた書家としても高名であった。
彼は松平宗衍公(天隆公)、治郷公(不昧公)、斉恒公(雪川公)という松平家の三代の文人・茶人大名に仕え、その愛顧を受け、徂徠学の末流(儒学者)として多くの著書を残した藩の重臣でもあった。
しかし、孔平は中年になると奇行が増え始めた。彼は大言壮語の大ボラ吹きとして知られ、「天狗」と呼ばれていたことから、自ら「天愚」と名乗った。
また、「私は孔子の子孫の娘と、平家の武士の間に生まれた子の子孫である」と胡散臭い出自を自称し、孔子の「孔」と平家の「平」を合わせて「孔平」とし、「天愚孔平」と名乗るようになったのである。
奇妙な格好と大ボラ
藩の重役でもある孔平は、家の中ではなぜか大きなかごの中で読書をしていたという。
外出する際には、晴れの日でも雨合羽を着込み、ボロをまとい、腰には拾った草鞋(わらじ)を何足もぶら下げるという、かなり異様な格好で平然と町を歩いていた。
さらに孔平は「長寿の秘訣」として、どんなに悪臭を放っても風呂に入らなかった。
そのため、女性や子供たちは彼を嫌がり、孔平が立ち去った後は箒でその跡を掃いたという。また、「熱い物を食べないこと」「女性と交わらないこと」「風呂に入らないこと」を長寿の秘訣として挙げていた。
年齢についても見た目からは判断しづらく、「何歳ですか?」と聞かれると「私は百歳だ」とホラを吹いていたという。
しかし、孔平は妻との間に九人の子供をもうけていたため、九番目の子供ができた後から女性と交わらなくなったのか、どこまでが本当でどこからがホラなのかは不明である。
このような奇行と大言壮語のため、江戸の人々は孔平を本当の「奇人」として見ていた。
千社札の元祖
千社札(せんじゃふだ)とは、神社や仏閣を訪れた記念として貼られるもので、自分の名前や住所が書かれたお札のことである。
このお札は、「せんしゃふだ」や「おさめふだ」「納札(のうさつ)」とも呼ばれている。
天愚孔平は、若い頃から時間があると江戸近郊の寺社を訪れ、記念に柱や壁に自分の名前を落書きしていたという。
しかし、次第に筆で書くのが面倒になり、「鳩谷天愚孔平」と大書した木版を大量に刷り、それを貼るようになった。これがきっかけで、千社札の習慣が広まり、千社札ブームが発生したとされている。
また、孔平は千社札を剥がされにくい高さに貼るなど、様々な工夫をした人物でもあった。この影響で、各地に千社札を貼るグループが生まれ、彼らは競い合うように千社札を貼り合った。
寛政11年(1799年)には、町奉行から「千社札の禁令」が出されたが、この習慣が完全に廃れることはなかった。
天保年間(1831年~1845年)になると、千社札は錦絵を16分割した短冊形の規格が作られ、錦絵と区別するために枠が入れられるようになった。
このように、天愚孔平の影響は後の千社札文化にも大きく貢献したのである。
おわりに
現代ではシール形式の千社札が普及しているが、その起源は江戸の奇人であり大ボラ吹きの天愚孔平であった。
曲亭馬琴の「兎園小説別集」には、馬琴が孔平に取材して書いた「天愚孔平伝」が収められており、この本が広く読まれたことで「天愚孔平」の名はさらに世間に知れ渡ったのである。
参考 : 『天愚孔平伝』他
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