世紀の大遅参
天下分け目の関ヶ原の戦いで「世紀の大遅参」という大失態を犯した江戸幕府2代将軍・徳川秀忠。
秀忠はこの失敗により、相当な苦悩を味わったことだろう。真田昌幸・信繁父子の策略に嵌り、秀忠にとって忘れられない黒歴史となった。
そのため、秀忠は「遅参」に対して非常に神経質になっていたはずだが、再び「遅参」するかもしれない事態に陥った。それは、豊臣家との最終決戦「大坂冬の陣」であった。
また遅参することを恐れた秀忠は、父・家康の最側近である本多正純に対し、「父に伝えてほしい」と切実な書状を送ったのである。
2代将軍・秀忠の切実な願い、大坂冬の陣での苦しい胸の内について詳しく見ていこう。
秀忠の切実な願い
秀忠は本多正純に対して2通の書状を送っている。
1通目の日付は慶長19年(1614年)10月23日で、これは秀忠が大坂に向けて出陣した日であった。父・家康は既に10月11日に駿府を出発し、10月23日には京都の二条城に入城していた。
秀忠は、出陣当日に以下のような内容の書状を正純に送った。
今日二十三日には相模国まで出馬いたしました。すぐにも上洛いたしますので、大坂城を攻撃するのを私が到着するまで待って下さいますよう、父・家康に申し上げて下さい。誠に自分勝手な申しようですが、この大事な時だからこそ、よろしく申し上げるようお願いします。
この書状は、秀忠が当時征夷大将軍という立場だったとは思えないほど切実である。
秀忠には「遅参」という過去の悪夢が再び蘇っていたのである。
途方に暮れる秀忠
出陣翌日の10月24日、秀忠は藤沢に到着した。しかし5万の大軍を引き連れての行軍は、急ぎたくても急げないものであった。
そんな中、父・家康からの書状が秀忠に届いた。家康もまた、「遅参」という悪夢を心配し、書状で秀忠に出陣の催促をしていたのである。
この状況に秀忠は非常に困惑し、2通目の書状を正純に送ることになった。その内容は概ね以下の通りである。
『早々に出馬せよ』と父・家康が仰せ下さり、面目ないと思っております。かくなるうえは一刻も早く路次を踏破して参上すべきと思いますが、大軍を召し連れておりますゆえ、遅くなってしまうであろうと思い、途方に暮れております。
「面目ない」という言葉からも、秀忠のプレッシャーが伝わってくる。さらに、どうすれば早く京都に到着できるかを考えた結果、次のように書き加えた。
奥州・関東の兵勢には陣を段々に分けるように申し付けておきました。これらの兵勢は後から行軍してくるに任せて、私自身は早々に参上したく思っております。私が到着するまでは大坂城を攻撃なさらないで下さいますよう、父・家康に申し上げていただきたく思います。
秀忠は兵を分けて身軽にし、自分だけでも早く到着することを優先したのである。とにかく兵が揃っていなくても攻撃前に自身さえ到着していれば「遅参」にはならないと考えたのだ。
この行動からも、秀忠がいかに「遅参」を避けたいと強く願っていたかがわかる。
今度は速すぎた秀忠
こうして秀忠は11月10日に京都の伏見に到着し、11月11日に父・家康と軍議を行った。その後、11月15日から移動を開始し、家康は11月17日に大坂の摂津住吉に着陣し、秀忠は摂津平野に着陣した。
そして11月19日、大坂冬の陣の最初の戦いである「木津川口の戦い」が始まったのである。
しかし、江戸から伏見までの道のりを17日間で駆け抜けた秀忠の強行軍は、その迅速さゆえに将兵たちを疲労困憊させ、戦える状態ではなかったという。
秀忠は10月24日に藤沢を出発し、26日に三島、27日に清水、28日に掛川、29日には吉田に到着した。その後も休むことなく行軍を続け、11月10日には伏見城に到着するという驚異的な速さであった。
『当代記』にはこのときのことが詳細に記されている。
廿六日三島。廿七日清水。廿八日掛川。廿九日吉田御着。路次依急給、供衆一円不相続、況哉武具・荷物己下曾て無持参。
(供廻衆を置き去りにして、武具や荷物も持たずに駆けに駆け、清水に着いたときには徒士240人、騎馬34人ほどだった)『当代記』
秀忠は、多くの供回りや武具、荷物を置き去りにし、急いで進軍を続けた結果、たどり着いた兵士は少数で散り散りなうえ、疲れ切っていたのだ。
結局怒られた秀忠
実は家康は途中でこの事態に気づき、秀忠に対して「軍勢を休ませながら徐行して進軍するように」と命じている。
『当代記』によれば、11月1日に秀忠が岡崎に到着した際に
揃人数、急度上洛可有儀、路次中急給故、供奉輩不相揃、軽々敷上給事、不可然
(きちんと人数を揃えて速やかに上洛すべきなのに、急ぎすぎて供の者を置き去りにするとは何事か)
と叱責する使者を派遣したとされる。
しかし、秀忠は家康の命令を無視し、11月2日には名古屋、5日には佐和山に到着するというさらに強行軍を続けた。
この行動に対し、家康は「大軍数里の行程然るべからざる由、甚だ御腹立 ※『駿府記』」と憤慨したという。
最後に
秀忠の焦りと行動は「関ヶ原の戦いでの遅参」という過去の失敗を二度と繰り返さないという強い意志の表れであった。
しかし、結局家康の怒りを買ってしまった。秀忠は為政者としての手腕はあったが、お世辞にも戦上手だったとは言えないだろう。
秀忠の一連の行動は、たとえ時の将軍であろうとも相当な重圧があり、当時の武将たちが抱えていたプレッシャーや責任感を象徴していると言えそうだ。
参考文献:「戦国武将からの手紙―乱世に生きた男たちの素顔」ほか
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