とりかへばや物語とは
『とりかへばや物語』という作品タイトルを耳にしたことはあるだろうか。
12世紀半ばに成立した平安後期の文学作品である。生まれながらにして男らしい気質を持つ姫君と女らしい気質を持つ若君。成長するに従い二人のきょうだいの役割は取り替えられ、やがて姫君は若君として若君は姫君として生きることになるという取り替えストーリーである。
そんな現代のラノベのような話が平安時代にあったのかとも思えるような内容だが、実は『とりかへばや物語』は一概に「男装少女と男の娘の話」とは言い切れないところがあるのだ。
男装少女?男の娘?
幼い頃から活発で外で遊ぶことが大好きだった姫君。人前に出ることが苦手で、いつも恥ずかしがっては閉じこもってばかりいた若君。そんな幼いきょうだいを見て父親は「二人を取り替えられたらいいのに」と嘆きの声を漏らす。そんな場面が物語冒頭では綴られる。
また、そんな二人の様子を見た周囲の人間はあろうことか姫君のことを若君だと、そして若君のことを姫君だと勘違いしてしまうのだ。
現代に生きる私たちから見れば活発な女の子だっているだろうし大人しい男の子だっているだろうというのは容易に考えられることであり、二人の性格はさほど不思議なことではない。しかし、平安時代という社会においてそれはうっかり周りの人間が勘違いしてしまうほどに異質なこととして映ったのだろう。二人の様子があまりに当時の社会規範から外れていたからだ。
二人のきょうだいの役割が取り替えられるに至ったのは、周りの勘違いと父親自身がそのことを強く否定しなかったことにある。そうして勘違いされたまま元服と裳着という当時の成人の儀式を済ませてしまったことにより、平安時代の男装少女と男の娘が誕生するのである。
姫君と若君の違い
実は、『とりかへばや物語』において二人が異装をしていた期間というのは存外に短く、物語中盤で二人の役割は正常なものへと戻る。
当然のことであるが、二人が周りの目を欺き役割を交換できたのは二人がまだ幼かったからだ。成長するに従いこのままというわけにもいかなくなる、周囲の目を欺くのにも限界があり、また姫君の男装が友人にバレるというアクシデントもあって二人の役割取り替えはあっさりと終了した。
しかし、『とりかへばや物語』の面白いところはそれだけでは終わらないということだ。
二人のきょうだいは生来の気質と周りの勘違いによって役割を取り替えられてしまった。けれど大人になった二人はやっと本来の役割へと戻ることができた、めでたしめでたしでは終わらないのである。
そこで着目したいのは姫君と若君の違いだ。
女の子らしくなれない姫君と男の子らしくなれない若君、本来二人は同じ苦しみを抱えていたはずだった。けれど物語中盤、本来の役割に戻った二人には明確な違いが生まれることになる。
というのも、本来の女の役割に戻った姫君は苦悩を抱えたまま生きることになるのだが、対する男の役割に戻った若君は男としての人生を思う存分に楽しむのである。
苦悩する姫君
あんなにも引っ込み思案だった若君であるが、本来の役割に戻った彼は男としての生を思う存分に謳歌していた。
当時の平安貴族らしく、夜ごとに出掛けては女性の姿を垣間見、つかの間の逢瀬を楽しむ。
それは「普通の男性」の姿であった。
しかし、一方の姫君は違った。
本来の女性としての役割に戻った姫君。その後姫君はなんと帝に見初められ、帝の寵愛を一身に受けることになる。平安時代当時、帝の寵愛を受けることは女性にとって至上の幸せであった。当時の女性にとって最上級とも言えるほどの幸せを掴んでなお、姫君は苦悩し続けるのだ。それは「世の常」になれないという苦悩だった。
男の役割に戻った若君は「世の常」の男になった。しかし姫君は自身のことを「世づかぬ身」と称して「世の常」になれない自身にずっと苦悩を抱えている。
二人の役割が戻った物語中盤以降、物語は姫君の心情描写に多くの言葉が割かれている。ハッピーエンドを迎えた若君と外面上はハッピーエンドを迎えるも苦悩を抱えたままの姫君。ここに、『とりかへばや物語』が一概に「男装少女と男の娘の一風変わった話」とは言い切れない理由があるような気がする。
まとめ
『とりかへばや物語』は、そのあらすじだけを聞くとまるで現代のライトノベルとしても通じそうな風変わりなストーリーのようにも思える。
しかし、物語を読み進めて行けばそう簡単にジャンル分けできそうな作品ではないということが分かる。役割を取り替えられた二人が本来の役割に戻るという結末を迎えてもなお、苦しみ続ける姫君。それは世間が求める女らしくなれないこと、普通の女になれないことの苦しみだった。社会が求める規範に適応できない、それは性だけに留まらず現代なお決して少ない数の人が抱えている苦しみのようにも思える。
だからこそ、平安時代に書かれた『とりかへばや物語』は数百年の時を超えてもなお読者の心に響くのである。
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