はじめに
日本の剣術の神として崇められているのが鬼一法眼(きいちほうげん)です。剣術の他に呪術も使いこなしたといいます。
彼がいなければ後の剣術や現在の剣道はなかったとされ、あの牛若丸(小さい頃の源義経)に剣術を教えた天狗ではないかとも言われる伝説の人物です。
謎に包まれた鬼一法眼について調べてみました。
鬼一法眼とは
鬼一法眼の生い立ちなどについては詳しいことはあまり分ってはいません。
彼の存在自体が伝説で、本当に居たかどうかも確かではありません。でも京都には彼の名前がつく場所があるのです。
京都の鞍馬寺の鞍馬山山門を登って小さな放生池の先に、鬼一法眼を祀る「鬼一法眼社」があります。鞍馬小学校の横には「鬼一法眼之古跡」があり、ここは鬼一法眼の屋敷跡とも墓だとも言われています。
そういえば鞍馬寺に鬼一法眼の社があったんだけど、武道の神様として祀られてるみたい(⚫︎ω⚫︎)
ギターではなかった(笑) pic.twitter.com/Rb6DrtjkPq
— 🐼ぽんず🐼 (@ponzumania) December 24, 2017
鬼一方眼は、幼名が「鬼一丸(きいちまる)」であり、伊予の国(現在の愛媛県松山市)の陰陽師の子供で、成長した鬼一方眼は陰陽博士の安倍泰長の門人になり、天文地理まで学び、呪術兵法の「六韜三略」を持つまでになるのです。
鬼一法眼が歴史に登場するのは、室町時代初期にかかれた「義経記」の第2巻です。鬼一法眼は、「きいちほうげん」とも「おにいちほうげん」とも呼ばれます。
義経記によると、鬼一法眼は京の一条堀川のあたりに住んでいたので、「堀川の鬼一」とも呼ばれ、その住居は京の中にあるのに四方に堀を廻らして水を張り、八つの櫓を築き、夕方の4~6時頃には渡していた橋を外してしまい、翌日の10~12時頃まで門を開けずにいたといいます。
鬼一法眼は、人の言うことなどまったく意に返さない華美な服装や贅沢な生活をしていて、鬼一法眼という名前から、陰陽師の他に僧だったとされる説もあります。
弟子たちは剣術を習うために一緒に住んでいて、文武の達人である彼の剣術は京八流と呼ばれる現在まで伝わる剣術の祖とされ、彼のことを剣術の神と称します。
鬼一法眼は、中国から伝わった天下の兵法書「六韜三略」という書物を持っていて、この書物は坂上田村麻呂が愛読して奥州の悪路王と呼ばれる人物を倒したという伝説や、平将門もこの書物によって分身の術を体得したとされる書物なのです。
源義経が、最初に奥州に下った17歳の時にこの書物があることを知り、学ぼうと思って京に戻って来ます。
義経は、鬼一法眼の屋敷に行って「弟子になって本を写させて欲しい」と頼み込みますががあっさりと断られてしまいます。どうあってでも読みたい義経は知恵を巡らせ、「屋敷にもぐり込んでしまえ」と考えます。ここで義経は鬼一法眼の家に仕えている若い女性の「幸寿前(こうじゅのまえ)」と仲良くなって居着いてしまうのです。
そして、鬼一法眼には姫がいることを聞き出して、今度は姫に近づいて恋仲になり、十六巻に渡る六韜三略を夏から秋の三か月で写して、内容を完全に把握してしまいました。
これを知った鬼一法眼は、大激怒して義経を討とうとして妹婿の湛海坊を追っ手に差し向けますが、逆に義経に返り討ちにされ義経に去られた姫は悲しみから亡くなってしまいます。
鬼一法眼が、源義経の師であるという説は間違いで、真実は兵法書を読みたいと考えた義経が、家に仕える女性に近づき姫と仲良くなって勝手に読んで写してしまうのです。
六韜三略とは
六韜三略(りくとうさんりゃく)とは、「日本国見在書目録」という日本最古の輸入漢籍の目録に掲載されていた実在の書物で、治承5年(1181年)に藤原兼実がこの書物を閲覧したとされ、当時、この書物を所有していたのは中原師景という人物です。
だから、一説には鬼一法眼は中原師景ではないかという説もありますが、真偽のほどは謎なのです。
六韜三略には、相当な神通力があるとされ、幻の兵法書だと伝わり、この兵法を会得すると魔法をかけられる位の力があるとされました(坂上田村麻呂の伝説、平将門の伝説)
それで鬼一法眼が恐ろしい妖術を使うという説となるのです。
平家を倒したいと考えていた17歳の源義経が、どうしても読みたいと思っても不思議ではない伝説の書物なのです。
この六韜三略は今日にも伝わっていますが、内容は兵法的には孫子の兵法に比べてはるかに及ばないもので、どちらかと言うと政治の指南書といった趣がある内容です。
鬼一法眼の剣術
剣術の神とされる鬼一法眼は、自分の剣術を鞍馬寺の8人の僧兵に伝え、これが鞍馬八流と呼ばれ、その後の剣術の源流となります。
その末流には宮本武蔵と戦う吉岡拳法で有名な吉岡流、大野将監が起こした鞍馬流。そして、柴田衛守によって現代の剣道の礎になったとされます。
鬼一法眼が伝えた鞍馬八流の剣の流れが鞍馬流となり、源義経が鞍馬山で剣術を修業して貫心流の開祖となります。つまり義経に直接教えた訳ではありませんが、間接的に鬼一法眼の剣術が古武道の源流となったのです。
浄瑠璃「鬼一法眼三略巻」とは
源義経の幼い時の名前は牛若丸ですが、牛若丸は鞍馬寺の阿闍梨(あじゃり)の弟子となり、名前を遮那王(しゃなおう)と名乗り、昼間は学問、夜は鞍馬山の天狗から武芸の修業を受けるという話があります。
鞍馬山を出て奥州に向かった遮那王が、陰陽師の鬼一法眼が持つ六韜三略という兵法書の存在を知り、京に戻ってきて鬼一法眼の姫に恋を仕掛けて盗み出すという前述の話は、文耕堂・長谷川千四作の浄瑠璃「鬼一法眼三略巻」からです。
鬼一法眼三略巻では、牛若丸が虎蔵(とらぞう)となって鬼一法眼の末弟の鬼三太(きさんだ)と共に鬼一法眼に仕えます。
鬼一法眼は元々は源氏の家臣でしたがこの時は平清盛の家臣です。清盛に兵法書の献上を迫られた鬼一法眼は源氏と平家の間で板挟みになり、天狗の姿になって牛若丸の前に現れて「かつて天狗の姿になって鞍馬山で兵法を指南したのは自分だ」と明かします。
そして、鬼一法眼は切腹して清盛への義理を立てた上で、牛若丸に想いを寄せる娘の皆鶴姫(みなづるひめ)に婿引出と称して、牛若丸の為に兵法書を与えるという創作された内容の浄瑠璃があります。
このことで、世の中には牛若丸に剣術を指南したのは鞍馬山の天狗で、鞍馬山の天狗の正体は鬼一法眼。鬼一法眼の兵法書を手にした義経は奇策を用いて平家を滅亡させたという創作につながっていきます。
この浄瑠璃は後に歌舞伎となります。また、鬼一法眼は、御伽草子や謡曲の「湛海」にも登場します。
おわりに
呪術兵法の六韜兵法を操り、現在まで伝わる剣術の祖でもある鬼一方眼は、あくまでも伝説の人物とされる説と、実際に生きていたとされる説もあります。
鬼一方眼の持っていた「六韜三略」は実在する書物であり、源義経について書かれた「義経記」には鬼一方眼の記述があります。後にこの話が牛若丸の話と一緒に創作されて「牛若丸に剣術を教えた天狗の正体は鬼一方眼である」という物語が生み出されます。
剣術の始まりは、鞍馬寺の僧兵を中心とした「太刀の術」とされ、鬼一方眼が生きていた時代と同じです。彼は伝説の書物を持つにふさわしい人物だったことは間違いないと思われ、源義経が盗みにいくという伝説が生まれるほどの剣術と呪術の達人だったのはないかと考えられます。
出ました鬼一法眼、剣豪の元祖にして幻術使い、源義経が平家を倒したのはこの人物のおかげだ!
この人に着眼するのはスゴイ。