エピローグ ~昌泰の変とは~
901(昌泰4)年1月25日、時の右大臣・菅原道真は、突如太宰権帥に左遷された。
道真は、1月7日に醍醐天皇より従二位を賜ったばかりだった。この左遷劇に老境に差し掛かっていた57歳の道真は、激しい衝撃を受けたに違いない。これが、「昌泰の変」といわれる菅原道真左遷事件である。
道真左遷の理由は、詔旨を伝えた宣命によると「醍醐天皇を廃位して、その異母弟・斉世親王を擁立した企てをたてた」ことによるという。
この変で処罰されたのは、道真だけではなかった。
大学頭・菅原高視、式部丞・菅原景行、右衛門尉・菅原兼茂の3人の男子たち。道真の娘婿である中宮職大進・仁明源氏の源敏相。道真の部下、右近衛権中将・嵯峨源氏の源善(みなもとのよし)と、その弟・源巌(みなもとのいわ)などだった。
「昌泰の変」の原因について、一般に述べられているのが、藤原北家による他氏排斥説だ。
当時左大臣だった藤原時平が道真の栄進に危機感を抱き、陰謀をめぐらせたというものである。しかし、変の前後の政治的な状況を踏まえて考えると、他にも様々な原因が見えてくる。
今回は、学問の神様として現在も多くの人々の崇敬を受ける菅原道真を襲った、突然の左遷事件の真相を探っていきたい。
道真の栄進と昌泰の変への過程
「昌泰の変」の真相を探る前に、先ずは簡単に道真の朝廷における歩みに触れておきたい。この道真の栄進も、左遷事件の一つの要因と考えられるからだ。
菅原道真は、845(承和12)年8月1日、文章博士兼参議・菅原是善の第3子として誕生した。是善の父・清公は、桓武天皇の信任を得て、歴史・文学を学修する紀伝道を掌る文章博士となり、私塾「菅家廊下」を設立。学問の家「儒林」としての菅原氏の礎を築いた。
道真は、862(貞観4)年に18歳で文章生、26歳で国家試験・対策に合格。33歳で式部少輔、そして念願の文章博士となった。ともに当時は、従五位下相当の官位。これが道真の貴族として、そして朝廷における文人の中心的な存在のスタートでもあった。
しかし、光孝天皇による太政大臣の職能勘申に関連して、886(仁和2)年に式部少輔兼文章博士を辞すことになり、国司として讃岐国への赴任を命じられた。道真はこの人事に「他人、左遷という」「国司は祖業にあらず」と無念さを述べている。
そんな道真にとって転機が訪れたのは、891(寛平3)年2月29日、光孝崩御の後に即位した宇多天皇による蔵人頭への補任だった。蔵人頭は、天皇の首席秘書ともいえる役職で、将来公卿への昇進を約束されたも同然という重要な職だった。
道真は宇多のもとで893(寛平5)年2月16日に、参議兼式部大輔に任ぜられて公卿に列し、2月22日には左大弁を兼務した。そして、895(寛平7)年には従三位・権中納言兼権春宮大夫に叙任。
また、その翌年には、長女・衍子(えんし)を宇多の女御とし、さらに三女・寧子(やすこ)を宇多の皇子・斉世親王(ときよしんのう)の妃とした。
こうした道真の活動は、関白・藤原基経亡き後、天皇親政を継続するうえで、「時平ら藤原北家の独走を許さない」という宇多の考えに応えたものといえる。
897(寛平9)年6月、宇多は、藤原時平を大納言兼左近衛大将、道真を権大納言兼右近衛大将に任じた。その翌月、宇多は皇太子・敦仁親王(あつぎみしんのう)に譲位し上皇となり、醍醐天皇が即位した。
実は敦仁の立太子に対し、宇多は道真と養母・藤原淑子(ふじわらのしゅくし・藤原基経の妹)のみと論定し、譲位のタイミングも道真とだけ相談したという。宇多の道真への信頼の深さがわかろうというものだ。
宇多は醍醐に対し、引き続き道真を重用するよう強く求めた。そして、大納言時平と権大納言道真の2人のみに、官奏執奏の特権を許したという。
ただ、この措置は他の執政官たちの反発を招き、時平と道真以外は誰も政務に参加しなくなった。道真は宇多に泣きついて、この混乱を収拾した。これは醍醐の治世になっても、権力の中心は上皇宇多にあり、道真が宇多の側近であることを周囲が認知したできごとだった。
そして、899(昌泰2)年2月、時平は左大臣、道真は右大臣に昇進する。この時点で、道真と醍醐の関係は良好であったと思われる。だが、この約2年後、道真は突然都を追われるのである。
道真左遷の真犯人は本当に藤原時平か
繰り返しになるが、道真左遷事件の原因として一般に言われているのが、左大臣藤原時平の讒言により、醍醐天皇が一連の処罰を行ったという「藤原時平の陰謀説」である。小・中・高校の教科書は、この藤原氏による他氏排斥説を採用している。
時平は、清和・陽成・光孝・宇多の4代にわたり、朝廷の実権を握った絶対的権力者、関白・藤原基経の長子である。そして、基経は宇多の即位に大きな働きをした。
宇多は、光孝の第7皇子だが、臣籍降下して源定省(みなもとのさだみ)と名乗っていた。その宇多が即位できたのは、基経の妹・淑子の養子であったことが、優位に働いたとされている。もちろんその背後には、基経の存在があったことは間違いない。
宇多は即位すると、基経に政治の全権委ねるため、関白にするとの詔を下した。この時に有名な「阿衡の紛議」が起きた。
基経は先例に従い、形式的に関白を辞退。それに対して、宇多は参議・橘広相に勅を起草させ、基経を「阿衡」に任じた。しかし、基経は宇多に対し、中国の古典では「阿衡」は実権のない職であると抗議し、一切の公務の遂行を放棄した。
その後、紆余曲折の末に、宇多と基経が和解し事件は解決したようにみえた。
しかし、この事件は藤原氏の前では、天皇はただの傀儡にすぎないことを証明したものだった。
そして、これが宇多の藤原氏に対しての警戒心を強め、基経の死後、摂政・関白を置かず天皇親政を行ったことに繋がった。さらに、基経の後継者・時平の対抗馬として、道真を重用したとみても無理はないだろう。
ただ、道真は「阿衡事件」の際に、密かに京に戻り基経に書を奉っている。それによると「阿衡」は修辞的なもので、これを問題にすると、文書を作る者にとって今後支障となる。また、藤原氏の勲功は大きいが、近ごろは少々ものさびしいなどと述べ、基経に穏便な解決を求めた。
こうした実直な意見を基経に堂々といえるのは、道真と基経が親密な仲であったからだ。基経は、道真の学才を大いに評価しており、讃岐赴任の際は、わざわざ自宅で選別の宴を開き、その前途を励ましたという。
基経には時平の他にも数人の男子がいるが、四男・忠平は道真と友好関係があり、その左遷に強く反対した。
このように基経ファミリーと、道真の関係はおおむね良好であった。
時平は道真より30歳年下であるが、その栄進は常に道真をリードしていた。宇多の寵愛で右大臣に栄達した道真ではあるが、「貴種」の藤原氏にとって「儒林」にすぎない菅原氏は、政治権力の争いにおいては、さほど気にする相手ではなかったのである。
では、藤原氏の他氏排斥以外に、道真左遷の原因は何があるのだろうか。
他の原因としては「道真は無罪で源善らが醍醐廃立を画策」「道真は無実で宇多が醍醐廃立画策」「醍醐の宇多に対しての政治権力独占の画策」などの説がある。
この内、有力と考えられるのが「醍醐の宇多に対しての政治権力独占の画策」説ではないだろうか。
醍醐の過剰なまでの疎みが左遷の原因
醍醐は、宇多の妹・為子内親王(いしないしんのう)を妃にしていた。しかし彼女は、899(昌泰)年3月に死去してしまう。すると醍醐は、即位時に宇多に強く反対された、時平の妹・穏子(おんし)を女御に迎えようとした。この時点では、宇多があくまで反対したため実現しなかったが、901(昌泰4)年3月、奇しくも「昌泰の変」の2ヵ月後に、穏子を迎えることに成功する。
時に醍醐は16歳。今ならほんの子供に過ぎないと思われるだろうが、当時の感覚は現代と大きく異なる。当時、元服が行われるのは12歳~16歳で、この年齢は既に大人の男子として見なされていた。
ただ、醍醐にとって、父・宇多の存在は大きかった。天皇として自分の思うがままに政治を動かしたい醍醐にとって、宇多と道真の親密な関係は、脅威にすら感じられるようになっていた可能性がある。
こうして醍醐は、道真でなく、左大臣時平との関係を強化した。道真左遷の際に、とりなしのために内裏に駆けつけた宇多を、終日門外に押しとどめた醍醐の行動は、道真の排除という強い意志の表れとみて間違いないだろう。その左遷の詔では「父子の慈しみを離間し、兄弟の愛を淑皮す」と、父・宇多と自分の親子関係へ、道真が介在したことを指弾した。
「昌泰の変」で道真を太宰府に左遷した中心人物は醍醐であり、その狙いは、父・宇多の政治力排除にあった。
つまり、宇多のブレーンである道真は、過剰なまでに醍醐に疎まれ、その結果、粛清されたとみるべきであろう。
まとめにかえて ~神になった道真~
菅原道真は、太宰府配流から2年後の903(延喜3)年2月25日に死去した。左遷後は俸給や従者もなく、衣食住もままならず、心労と老病のため死に追い込まれた。
太宰府における道真の窮状は都にも伝わっていたが、忠平ら道真と親しい者たちも醍醐に背けず、援助の手を差し伸べることはできなかった。また、多くの貴族たちも道真の異例な栄進への嫉妬・反発から、誰も援護するものはいなかった。
こうして醍醐は道真を、完全に抹殺することに成功したのである。
しかし、908(延喜8)年に参議・藤原菅根が、909(延喜9)年には時平が病死した。そして913(延喜13)年には、右大臣・源光が鷹狩りの最中に泥沼に転落して溺死した。いずれも醍醐の意向で、道真左遷に加担した者たちだった。
そして、923(延喜23)年には、醍醐の皇子で東宮の保明親王が薨御。こうした出来事が道真の怨霊が原因とされると、醍醐は道真を右大臣に復位、正二位を遺贈し、左遷の宣命を焼却した。
だが、醍醐の懸命な行動も効果がなく、930(延長8)年には清涼殿が落雷を受け、朝廷要人に多くの死傷者が出た。そして、それを目撃した醍醐も体調を崩し、それから3ヶ月後に崩御している。
太宰府で無念の死を遂げた道真の怨霊は、最後は雷神となって醍醐自身に災いをなしたと人々は考えた。その結果、10世紀後半になり、道真は天神として北野天満宮に祀られ、文人たちも学問の神として崇拝し、現在に至る天神信仰が成立するのである。
※参考文献
佐藤信編 『古代史談義・戦乱篇』ちくま新書 2019年3月
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