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『源頼朝に命懸けの諫言』神として祀られた御家人・岩瀬与一太郎とは何者?

いつの時代も、目上の相手に対してモノ申すのは、なかなか勇気がいるものです。

歴史を振り返ってみると、相手によっては機嫌を損ねて命を獲られてしまうことも少なくありませんでした。

それでも大義のためとあらば、命懸けでモノ申さねばならぬ時もあるでしょう。

今回は鎌倉殿こと源頼朝に決死の諫言をした、岩瀬与一太郎義正(いわせ よいちたろう よしまさ)のエピソードを紹介したいと思います。

「今こそ源氏が力を合わせるべき」

画像 : 平家追討の前に、佐竹氏を討って東国の地固めに乗り出した頼朝。歌川芳員「鎌倉大評定」より

岩瀬与一太郎義正は生年不詳、常陸国那珂郡大宮郷岩瀬(茨城県常陸大宮市)の岩瀬城主として、佐竹義政に仕えていました。(※佐竹秀義に仕えたとする説もあります)

治承4年(1180年)11月、鎌倉から源頼朝の軍勢が攻めて来た際、佐竹義政は頼朝に対して臣従を申し出ます。

しかし11月4日、義政は上総介広常によって謀殺されてしまいました。

頼朝は義政を迎え入れるつもりがなく、広常に暗殺を命じていたのです。

義政の残党らは一矢報いるため大矢橋(茨城県石岡市・美野里町の境界に架かる大谷橋)で合戦に及び、与一太郎も力の限り奮戦しましたが、程なく武運尽きてしまいました。

捕らわれた与一太郎らは11月12日に捕縛され、14日に頼朝の面前へ引き出されます。与一太郎が泣いているのを見咎め、頼朝が問いただしました。

「何ゆえ泣いておるのか」

与一太郎は毅然と答えます。

「主君が討たれてしまった今となっては、この命に何の意味もなくなったからだ」

頼朝が重ねて問いただしました。

「ならば何ゆえ、主君の窮地に命を投げ出さなかったのか。またあの場で討死を遂げなかったのか」

与一太郎は、声を荒げて答えます。

「あの時は、橋の上で主君と上総介が一対一でやりとりしていて、我々が駆けつける暇さえなかったのだ。そして討死せず命を永らえたのは、鎌倉殿に申し上げたいことがあるからだ」

無礼な物言いに御家人らは怒り出し、叩っ斬らんばかりでしたが、頼朝は続きを促しました。

「いま平家を追討すべき時に、何ゆえ源氏の同族を滅ぼされようとなさるのか。天下の勇士が皆で力を合わせなければならない時に、罪なき同族を滅ぼした後、真の敵は誰に追討させるおつもりなのか。鎌倉殿やその妻子らを誰に護らせるおつもりなのか。そのことをよくお考えになるべきでしょう。今は皆あなたの武力を恐れて仕方なく従っているだけで、誰も心から従っているわけではない。このままでは、子孫に問題を残すばかりだ」

一通り諫言を聞いた頼朝は、何も言わずに奥へ引き籠もります。

広常は与一太郎を斬るよう頼朝に進言しますが、頼朝はむしろ与一太郎を赦し、御家人の列に加えたのでした。

『吾妻鏡』にその理由は明記されていないものの、頼朝は主君を思う忠義の心と、死をも恐れず諫言した勇気を賞したのでしょう。

鎌倉の岩瀬に稲荷神社を創建

画像 : 頼朝の随身一騎奉行に抜擢された岩瀬与一太郎(イメージ)

御家人に加えられた岩瀬与一太郎は本領を安堵され、また頼朝の随身一騎奉行に任じられました。

随身一騎奉行について詳しい記録はありませんが、恐らくは頼朝の身辺警護に当たったのでしょう。岩瀬与一太郎はよほど頼朝から信頼されていたようです。

また、相模国鎌倉郡山内庄岩瀬郷に所領を与えられました。

与一太郎が治めたからこの地も岩瀬と呼ばれたのか、あるいは偶然どっちも岩瀬という地名だったのかについては、説が分かれるようです。

やがて建久年間(1190~1199年)に稲荷神社を創建。

800年以上の歳月を越えて人々から崇敬され続けるのでした。

○稲荷社 保食・大己貴・大田・倉稲魂・大宮姫の五座を祀て五社明神とも唱ふ村の鎮守なり、村持、建久中、岩瀬與一太郎奉行して建立すと傳ふ、幣殿・拝殿等あり、例祭九月廿九日鶴岡職掌坂井越後神職を兼ぬ

越後が家傳に據に、祖時保當社の神職なりしを、文治中、職掌に補せられ、彼地に移れり、後年戦国の頃爰に退住せしに、文禄中、復職す、故に兼職すとなり、△末社 若宮 ○神明宮三 村持下同、○三島社 ○白山社 ○八幡社 ○貴船社 ○十二天社ニ ○諏訪社ニ ○青木明神社 ○番場社 ○権現社 神号詳ならず、○弁天社

※『新編相模國風土記稿』巻之九十九 村里部 鎌倉郡巻之三十一

それから岩瀬与一太郎がどのように活動し、最期を遂げたか、詳しいことは分かっていません。

一説には稲荷神社の南東に鎮座する貴船社(きぶねしゃ。木舟大明神)に、御祭神として祀られているとも言われます(あるいは高意美神とも)。

終わりに

画像 : 鎌倉市岩瀬に鎮座する稲荷神社。筆者撮影

今回は、命懸けで頼朝に諫言した勇士・岩瀬与一太郎について紹介してきました。

その生涯はほとんど不明だったものの、彼の諫言が平家追討の大願を成就する一助となったことでしょう。

ただし頼朝の恐怖政治?は留まるところを知らず、それが鎌倉に影を落とし、血塗られた歴史を刻み続けることになります。

鎌倉市と横浜市栄区の境界に位置する岩瀬の地に、今も鎮座する稲荷神社。

観光ルートからは少し外れているものの、参拝すると岩瀬与一太郎の遺徳を偲べることでしょう。

参考資料 :
・五味文彦ら『現代語訳 吾妻鏡 1 頼朝の挙兵』吉川弘文館、2007年10月
・『大日本地誌大系23 新編相模国風土記稿 第五巻』雄山閣、1998年4月
・岩瀬・五社稲荷神社パンフレット(非売品)
文 / 角田晶生(つのだ あきお)校正 / 草の実堂編集部

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