※紫式部(菊池容斎『前賢故実』)wikiより
はじめに
諸君は「源氏物語」を原文で五十四帖すべて通読したことがあるだろうか。
私はこれまで何度か通読しているが、その度にある種の違和感を覚えている。
それは「源氏物語の作者=紫式部」とされているがそれは本当なのか、ということだ。
文体やセンスなど、どうにも複数の人間が関与しているように思えてならないのだ。
実は「源氏物語」には複数作者説があるのを諸君はご存じだろうか。今回はその点について調査をしてみた。
和辻哲郎の論
※和辻哲郎 毎日新聞社「毎日グラフ(1955年11月2日号)」wikiより。
「源氏物語」複数作者説を唱えた先学として、まず注目すべきは和辻哲郎(わつじてつろう)であろう。
和辻の論は岩波文庫「日本精神史」に収録されている『源氏物語について』で読むことができる。
和辻は「源氏物語」第二巻に当たる「帚木」の初めの書き出し
「光源氏、名のみことごとしう」(光源氏は好色の人として評判のみはことごとしく)
という部分に着目し疑問を提示する。
我々は第一巻の物語によって、桐壺の更衣より生まれた皇子が親王とせられずして臣下の列に入れられたことを、すなわち「源氏」とせられたことを、知っている。またこの皇子がその「美しさ」のゆえに「光君(ひかるきみ)」と呼ばれたことも知っている。しかし物言いさがなき世間の口に好色の人として名高い「光源氏」については、まだ何事も聞かぬ。幼うして母を失った源氏は、母に酷似せる継母藤壷を慕った、しかしまだ恋の関係にははいらない。十六歳の葵の上に対してはむしろ嫌悪を感じている。そうしてこの十二歳以後のことはまだ語られていない。我々の知るところでは、光君はいかなる意味でも好色の人ではない。しかも突如として有名な好色人光源氏の名が掲げられるのは何ゆえであろうか。
和辻はこの疑問に対して、そして二つの可能性をあげる。
一つは「紫式部がすでに光源氏について多くのことを書き、その後に帚木の巻を書く場合」であり、もう一つは「光源氏についての物語が、すでに盛んに行われていて、紫式部はただこの有名な題材を使ったに過ぎぬ」場合であるとする。
そこから「とにかく現存の『源氏物語』が桐壺より初めて現在の順序のままに序を追うて書かれたものでないことだけは明らかだと思う」と述べている。
さらに和辻は、「紫式部日記」の下記の数節の記述に依拠して「『源氏物語』の作者=紫式部」としている本居宣長の説にも疑問を提示する。
>内裏の上の『源氏の物語』、人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに
>『源氏の物語』、御前にあるを、殿の御覧じて、例のすずろ言ども出で来たるついでに梅の下に敷かれたる紙に書かせたまへる。
>左衛門督、「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ。」と、うかがひたまふ。源氏に似るべき人も見えたまはぬに、かの上はまいていかでものしたまはむと、聞きゐたり。
そして和辻は、南北朝時代の源氏物語の注釈書「河海抄」に「藤原道長が『源氏物語』に加筆した」との旨が書かれていることや、一条兼良の「花鳥余情」に「紫式部の親である藤原為時が作者である」という内容が引用されていることをあげて、「源氏物語の作者についての確説は立っていなかった」と指摘する。
また和辻は「源氏物語」について
「巻ごとに、ある時はすべてを超越する客観的な立場が優越し、ある時は一つの場景全体が主人公の眼をもって見られることもある。そうしてその立場のとり方によって描写の技巧にも巧拙がある」
として「描写の混乱」や「表現の不十分な部分」について指摘し、その原因について、
「もし我々が綿密に『源氏物語』を検するならば、右のごとき巧拙の種々の層を発見し、ここに『一人の作者』ではなくして、一人の偉れた作者に導かれた『一つの流派』を見いだし得るかも知れない。もしそのことが成功すれば、『源氏物語』の構図の弱さが何に基づくかも明らかになり、紫式部を作者とする「原源氏物語」を捕えることもできるであろう。」
と、複数作者の可能性を示唆する。
大正11年に発表されたこの和辻の論は、その後の「源氏物語」研究に大きく影響を及ぼした。
この和辻の論の与えた影響について岩波文庫の解説で以下の旨が述べられている。
・和辻に続いて十数年後に、青柳(阿部)秋生が「源氏物語」の成立問題を発展させた。
・1950年武田宗俊は、「『源氏物語』の巻一から巻三十三は、二つの系統をつぎあわせて成立した
という仮説をたてた。
その上で「武田説のあきらかな先駆者は和辻であった」としている。
折口信夫〜西村亨の論
※折口信夫
和辻とともに注目すべきは折口信夫の論であろう。
折口は中央公論社「折口信夫全集第十五巻」に収録されている「源氏物語研究」と題された座談会で以下のように発言している。
・(「源氏物語」の写本は)失われたというよりは、あとから書き足されたろうと思われる部分が多く考えられます。
・普通、紫式部が全部書いたと信じていますから疑わなかったんですけれど、だんだん疑ってきたんですね。
・まあすくなくとも若紫の巻は紫式部的だ。紫式部の書いたものとみてよいだろうということになるんですね。
・いわば紫式部は紫の上のことを中心にして書いている。それに絡んで光源氏その他の人のことも、脇として書くことになる。
・(「宇治十帖」は)紫式部の娘が書いたということにもいえましょう。
また「折口信夫全集第八巻」に収録されている「傳統・小說・愛情」においては「若菜」巻について以下のように述べている。
・この物語の作者は、昔から女性だとの推定が動かぬものとなつてゐるが、これが脆弱な神経では書ける訣のものではない。
・源氏も、成熟しきつた時期は、紫式部が書いているのではない、と私などは信じている。
この折口の立場を継承し発展させたのが西村亨である。
西村の論は「知られざる源氏物語」(講談社学術文庫)や「源氏物語とその作者たち」(文春新書)で読むことができる。
また両書の内容は「新考 源氏物語の成立」(武蔵野書院)にもまとめられている。
「源氏物語とその作者たち」において、西村は前述の武田宗俊による研究を用いて、「源氏物語」に存在する二つの系統の物語について言及する。
武田は登場人物に着目して「源氏物語」の桐壺から藤裏葉まで(第一部とされる)を大きく「紫上系」「玉鬘系」に分類した。
・紫上系…桐壺、若紫、紅葉賀、花宴、葵、榊、花散里、須磨、明石、澪標、絵合、松風、薄雲、槿、少女、梅枝、藤裏葉
・玉鬘系…帚木、空蟬、夕顔、末摘花、蓬生、関屋、玉鬘、初音、胡蝶、蛍、常夏、篝火、野分、行幸、藤袴、真木柱
武田説は巻々の成立が、現在の「源氏物語」の並びの順序通りでなかったことを指摘するものであったが、西村は概ねこの分類を受け入れた上でさらに、「紫上系(藤裏葉まで)」については「紫式部自身の作である」と述べ、若菜上から始まる俗に第二部と呼ばれる部分については「作者としての紫式部に関係ないもの」とし、「第一部の玉鬘系も除外していいだろう」とする。
西村はその上で「紫上系」の物語とされている巻を再検証し「原源氏物語」の姿を探る。その過程で西村は「紅葉賀」における老女・源典侍との恋愛譚や、「花散里」巻についても紫式部以外の者に筆によるものである可能性を指摘するなど、持論を展開している。その詳しい内容については読者諸君御自身で同書を参照して確認して欲しい。
この「知られざる源氏物語」の中で、複数作者の可能性ついて西村はさらに論を展開するのだが、着目すべきは紫式部以外に「源氏物語」を書き得た「男性作者」の候補の人物をはっきりとあげている点であろう。
その人物とは藤原頼通。道長より譲り受けた別業を仏寺に改め、平等院としたことで知られるあの人物である。
西村は頼通の人物像を検証する。
・中宮彰子の周辺にいて、女房たちとも親しく接することができる。
・文学に限定することなく芸術・文化全般への嗜好が見られる。
・晩年は、「宇治十帖」の舞台である宇治に隠栖し、宇治関白と称せられた。
正直いって西村の論は残念ながらはっきりとした学術的論拠というには弱い感じがするが「男性作者」の存在ということには、私・武蔵大納言も強く共感している。
というのも、私自身が「源氏物語」に対して感じる違和感が、「男性を含む複数作者説」によって、だいぶ解消されるのだ。
上記の武田説において「玉鬘系」に分類されている「末摘花」という巻がある。これは誤解を恐れつつ、大胆に簡略化して言ってしまえば「ブスを笑いものにする話」である。
こういう感性を、本当に紫式部という女性は持っていたのであろうか。
趣味というか、感性が「源氏物語」のメインストーリーである「紫上系」とあまりにも乖離している。
むしろ私は源氏以前に成立したとされている「落窪物語」などと共通する「幼稚さ」、言い換えれば「趣味の悪さ」を感じてしまうのだ。
その問題は、紫式部が書いた「もともとの源氏物語」に、後から男性作者が加筆したと考えることで解決できる。
そういったこともあって、私は西村の男性作者説を支持するのである。
瀬戸内寂聴の論
※瀬戸内寂聴
ここまで「源氏物語」複数作者説について語ってきたが、一方で「源氏物語」を紫式部ひとりの手になるものと考える説も根強い。
「源氏物語」の受容において「小説家・作家による翻訳」が果たしている役割は大きい。
その中でも瀬戸内寂聴はカルチャーセンターで催される「源氏物語セミナー」などを受講されるオバサマ方に絶大な人気を誇る作家であり、「源氏物語」についての著作も多く、また「源氏物語」の現代語訳も手がけている。
そんな瀬戸内寂聴はガチガチの「源氏物語=紫式部単独作者」説の支持者である。
瀬戸内寂聴は自身の手による「源氏物語」の現代語訳を講談社から出版しているが、その巻末に「源氏のしおり」と題した自身の論を載せている。
瀬戸内寂聴は以下のように述べている。
・「源氏物語」は紫式部という子持ちの一寡婦の手による偉業である。
・複数作者説は「これだけ壮大な傑作が一女性の手で書けるはずがない」という男性研究者の想像と仮説によるもので、根拠はない。
また、光源氏が物語世界から退場した匂宮三帖(「匂宮」「紅梅」「竹河」)と宇治十帖(「橋姫」から「夢浮橋」)も同様に紫式部ひとりの作だとする。実は匂宮三帖は文体も著しく他の巻と違っており、紫式部以外の者の手によるものであるという疑いが極めて強い。その問題も含めて、瀬戸内寂聴は自身の論を展開している。
・紫式部は「雲隠」巻の源氏の死をもって「源氏物語」をいったん完結した。
・「源氏物語」で一条天皇の関心を中宮彰子の局に引きつけることに成功した後、道長の紫式部への扱いは変容した。
・紫式部はそんな道長の態度に心が傷つけられた。
・紫式部は「雲隠」までの原稿を道長に渡して二、三年後に出家。
・出家後の紫式部は宇治に庵を結んだ。
・何年か経って、仏教の教養を積み、勤行に励む中で「源氏物語」の続編を書く意欲が生じた。
・紫式部は荒々しい宇治川の流れを伴奏に写経をしながら、用紙の裏に物語の構想を書きとめた。
・「匂宮」「紅梅」「竹河」と新しく書き始めた時点では昔の筆運びも乱れがちだった。
・「竹河」の終るあたりから、鮮やかに昔の筆の勢いがよみがえった。
・「橋姫」に至って、紫式部の筆勢はかつての自信を完全に取り戻し、のびのびとしてくる。
作家らしく豊かな想像力が発揮された論であり、何よりも、紫式部並びに「源氏物語」への愛が感じられる。
とはいえ、この瀬戸内寂聴の論もまたそれを裏付ける学術的証拠には乏しいと言わざるを得ない。
最後に
ところで、近年、統計学的手法を用いて「宇治十帖と源氏物語の本編の作者は同一である」とする研究結果なども報告されている。
今後、人工知能などのテクノロジーの発達によって、こういった方向からのアプローチによる源氏研究が進んでいくのかもしれない。
そうなれば、むしろ逆に、発達したテクノロジーによって「源氏物語」複数作者説に科学的・合理的な説明がなされる日が来るかもしれないと思っている。今後の研究の進展に期待したい。
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