楠木正成とは
楠木正成(くすのきまさしげ)とは、元弘の乱で後醍醐天皇を奉じ、千早城の戦いでは大規模な鎌倉幕府軍を千早城に引き付けて、日本全土で反乱を誘発させることによって鎌倉幕府の打倒に大きく貢献した武将である。
「建武の新政」では、最高政務機関の記録所の寄人に任じられ、足利尊氏らと共に後醍醐天皇を支えたが、足利尊氏の反乱後、湊川の戦いで足利尊氏の軍に敗れて自害した。
「日本史上最大の軍事的天才」との評価を受けているが、実は楠木正成は忍者であったと言われ、その奇抜な戦術は忍術を応用したのではないか、という説もある。
今回は楠木正成の忍者説について解説する。
伊賀の服部氏との関係
楠木正成を語る場合、非常に重要な存在が伊賀の服部氏である。
実は楠木正成の妹は伊賀の服部氏に嫁いでいる。
伊賀の服部氏と言えば、伊賀忍者の祖と呼ばれる「上忍3家」の1つとして有名だが、元々彼らは南朝に仕える技能集団で南朝皇統奉公衆の「八咫烏(やたがらす)」の一派である。
逆に北朝に仕えた技能集団北朝皇統奉公衆は「山窩(さんか)」と言われ、彼らは甲賀忍者で、その祖は大伴氏とされている。
伊賀忍者と甲賀忍者、「八咫烏」と「山窩」、彼らは敵対していたようなイメージがあるが、実際には同族であえて2つに分かれて活動することで、日本を裏から操りつつ存続して来たのである。
楠木正成の妹と伊賀の服部氏の間で生まれた子が、能楽を起こした「観阿弥」で、その子が「世阿弥」なのだ。(※ただし観阿弥の出自は幾つかの説がある)
能楽師は全国各地を巡業していたが、実は本業は諜報活動でいわゆる「間者=忍者」だったという説がある。
楠木正成と言えば南朝の忠臣としての顔と、民を率いて奇想天外なゲリラ戦術を行った山の民の首領という2つの顔がある。
楠木正成も南朝皇統奉公衆の「八咫烏」の1人だったのではないかとされている。
伊賀忍者や修験道と深く関係していたことや、出自が明らかにされておらず単純に「悪党(最下級武士)」とされていること、180cm以上の長身であり、奇想天外なゲリラ戦術(兵法)を使いこなしたことも、忍者としての特徴が表れている。
楠木流忍術の祖
楠木正成は中国の兵法書などにとても詳しかったと言われ、楠流忍術を自ら興したとする見方もある。
実際に変装して畿内各地を歩き回り、北朝方の動向を探っていたという話も伝えられている。
また、忍術伝書の「萬川集海」には、楠木正成が49人の忍者を従えていたことや、忍術の極意を一巻にまとめて嫡子・正行(まさつら)に授けたという話が記されている。
しかも、楠流から分かれたと言われている忍術流派も多く、名取流(なとりりゅう・新楠流)、南木流(なんぼくりゅう・楠正辰流・伝楠流)、河陽流(がようりゅう・会津藩伝楠流)、河内流(かわちりゅう)、行流(こうりゅう・楠木正成流)、陽翁伝楠流(ようおうでんくすのきりゅう)などが挙げられる。
忍術三大秘伝書の一つである「正忍記」は、この系統の奥義を記した忍術書とされている。
散所の長
「建武の新政」で大出世を果たした楠木正成だが、実は楠木正成は河内国の散所の長・楠木正遠の嫡子だった。
散所とは、中世に寺社の荘園で交通の要衝にあたる土地に、交通労働者(駕籠かき・船頭・荷揚げ人足・馬借・馬車引き・馬夫・日雇い人夫)たちが自然に集まり、これに旅芸人・博徒・香具師・行商・露店・酒飲店・遊女等が加わって形成した集落のことである。
その長(保護者)は、「悪党」と呼ばれる最下級の新興武士だった。楠木正成はその長を務めながら、忍者としての兵法(奇想天外な戦術)を用いて鎌倉幕府の大軍を千早城に長期間釘付けにした。
そして、身内の伊賀忍者の中から約50名を畿内の要地に配置し諜報・調略を行なわせて、能楽師の観阿弥・世阿弥親子をその勢力下の大和結崎において開座させて耳目として用いて、「伊賀忍者・散所の大衆・能楽師」らの大組織を作り上げ、その長となっていたのである。
楠木正成死後の忍者組織
楠木正成の没後、その後を継いだのは正成の3男・楠木正儀(くすのきまさのり)だった。
彼も忍術の将として南朝を守ったが、その時代に伊賀・甲賀の忍家は輪番制で吉野の御所(南朝)を警護し続けた。
能楽師の観世父子(観阿弥と世阿弥)は三代将軍・足利義満に仕えて幕府の能楽首座となったが、四代将軍・義持の代になると幕府を追われ、五代将軍・義教の時には世阿弥の子・元雅が興行中に義教の家来に暗殺され、世阿弥も佐渡に流された。
これは、彼らが楠木正儀との特別な関係を秘密にしていたことが原因だと言われている。
初代・観阿弥も三代将軍・義満の時代に急死しているが、これは駿河国の守護大名・今川範国に暗殺された疑いが濃厚である。
観世父子は北朝方の武将たち、特に将軍・義満の側近たちから南朝方のスパイと目されていたのである。
後醍醐天皇の英断
楠木正成は「建武の新政」当時、最下級の武士「悪党」であったが、後醍醐天皇はそれを知っていながらあえて楠木正成を重用し、正成はそれに報いるために後醍醐天皇のために懸命に働いた。
位は左兵衛慰と下の方だったが、大武門である足利尊氏や新田義貞といった武士と同様の側近として重用されたのである。
重用してくれた後醍醐天皇の殊遇に感激した楠木正成は、帝の信頼に応えることを決意していた。
正成は「建武の新政」が武士階級の支持の上に築かれることを切望していたが、逆に「建武の新政」は宮廷貴族の利権を守る方に傾いて行くのを見て、崩壊することも内心予見していた。
かくして足利尊氏の反乱が起きる。
しかし正成はあえて足利尊氏にはつかず、自分を重用してくれた後醍醐天皇の信に応える道を選んだ。
楠木正成は利や命よりも名を取ったのである。
これは知らなかった、ためになりました。鎌倉幕府の大軍にたった500人位で足止めした理由が分かりました。