鎌倉時代には今も続く新たな仏教が多く誕生した。
浄土宗・浄土真宗・日蓮宗・臨済宗・曹洞宗等がこれに当る。
京都や奈良の既存仏教大寺院は依然強い力を持ち、新仏教勢力を弾圧迫害し、自らの勢力範囲から追い出した。
しかし結果的に新仏教は京都から地方へ、一般庶民や武士階級へ広がる事となる。
浄土宗開祖・法然上人は、様々な階級の弟子を持った。
彼らは何故、法然の弟子になったのか?
法然上人とは?
「浄土宗」の開祖・法然上人の生い立ちは、かなりハードである。
法然は、美作国(岡山県東北部)地方官吏・漆間時国(うるまときくに)の息子として生を受けたが、領地関連の言い争いで明石貞明から酷く憎まれ、夜討ちされる。
時国は、10歳に満たない我が子に「仇討ちなどは考えず、安らかに暮す生涯を選べ」と言い残した。
法然は遺言に従い、母方の叔父で天台宗僧・観覚の下で僧侶の修行に入る。
後に、天台宗総本山「比叡山延暦寺」で高名な師達の下で学び、「法然房」と称された。
1156年(保元元年)に師匠に暇乞いし、仏教各派の経典や伝記を学ぶ事に専念する。
1175年(承安5年)43歳の時、「南無阿弥陀仏」と 仏の名をとなえ、心の内に仏を念ずる称名念仏の布教に入る。
1186年(文治2年)天台僧・顕真が、法然を大原勝林院(京都市左京区北東部にある天台宗寺院)に招いた。
そこで法然は、仏教諸宗の僧侶達と浄土宗問答を行ったのである。
仏の教えが衰えた救い難い今世では、称名念仏以外に救われる道はないと熱心に説いた。
この「大原問答」に参加した真言宗の僧侶・重源など多くの僧侶が、法然の弟子となった。
1190年(建久元年)重源の依頼を受けた法然は、東大寺大仏殿で浄土三部経を講義する。
1198年(建久9年)法然を信じ頼りにする九条兼実(京都公卿・藤原氏)の願いを受け、新たに教えを開いた意義を「選択本願念仏集」にまとめる。
また、後白河法皇(77代天皇・後に天皇の位を譲り上皇、出家し法皇となる)の法要を長講堂(法皇ゆかりの寺院)にて営み、法然の名声と教えは世に知られていくこととなる。
しかし1204年(元久元年)、延暦寺の僧侶達が天台宗住職に専修(念仏行を専ら行う)禁止を訴え、翌年は法相宗総本山興福寺の僧達が後鳥羽上皇(第82代天皇、位を譲り上皇となる)に専修禁止を訴えたのである。
1207年(承元元年)後鳥羽上皇がついに念仏停止の令を下す。
法然は僧籍を離脱させられ、俗人として讃岐国(香川県)へ流罪となる。
10ヶ月間の流罪を経て許されるが、4年摂津国(大阪府北中部大半と兵庫県南東部)で過ごし、1212年(建暦元年)京都に戻り、翌年80歳で亡くなった。
熊谷直実
法然上人の弟子の中で、皆さんが意外に思えるのは、「熊谷直実」だと思われる。
※熊谷直実については下記記事を参照
「息子と同年齢の平敦盛を殺したことを悔んで出家」 熊谷直実
https://kusanomido.com/study/history/japan/kamakura/60197/
「熊谷直実」とは、平家の栄枯盛衰を描いた軍記もの「平家物語」に登場する実在人物である。
1184年(寿永3年)熊谷直実は、源義経の下で平家と戦った。
平敦盛を一騎打ちで打ち負かしたが、我が子と近い年齢だったので見逃そうとした。しかし味方が寄せてくる有様を見て、供養の約束をして辛い想いで敦盛の首を斬った。
後に直実は、敦盛が平清盛の弟・経盛の末子と知る事になる。
その後、直実は伯父との相続争いに敗れて出家の方法を探し、法然に面談を申し込んだのである。
直実は、成仏する方法について法然に尋ねた。
すると法然は
「ただ念仏を唱えれば成仏します。他は一切無い」と答え、直実はすすり泣いて感激した。
相手の返答によっては、自害するか、片手足を切り落とすかの覚悟があったらしい。
1193年(建久4年)頃、直実は法力房蓮生 (ほうりきぼう れんせい)と名乗り、法然の弟子と認められた。
九条兼実
摂政・関白・太政大臣まで上り詰めた京都の公卿・九条兼実も、法然門下である。
兼実は、平氏や後白河法皇(天皇を譲位した上皇が出家した呼称)と敵対せず、距離を置いた態度を取り続け、昔の儀式慣例を集めて中国政治書の研究に熱中していた。
平氏が兼実を右大臣に就けたが、殆ど職務に出ることはなく20年間傍観者に徹した。
源頼朝は彼の中立的政治姿勢を評価し、後白河法皇に兼実を中心に据える要求をした。
1186年(文治2年)兼実は摂政となり、藤原氏一門の族長となる。
しかし、跡継ぎが22歳で亡くなった前後から反兼実派が台頭し、勢力を増す。
後白河法皇が亡くなった後、兼実は一時的に勢いを取り戻したが、後鳥羽天皇らの反発を喰らい失脚。
1196年(建久7年)11月、関白を辞職する。
その後、辛苦を共にした妻に先立たれた兼実は、1202年(建仁2年)出家し、円証と名乗る。
彼に仏の弟子になるための儀式を授けたのは、法然だった。
兼実は、将来有望の長男を失った悲しみから、念仏を唱える教えに救いを求めたのである。
法然を深く崇拝し、彼が流罪になった時は、元の流罪地である土佐国から自分の領地・讃岐に変更を計らって守ったと云う。
後鳥羽上皇・女官(松虫姫・鈴虫姫)
法然が讃岐国へ流罪となった原因は、後鳥羽上皇の女官二人が、彼の弟子が主催した「念仏会」(念仏と法話の会)に出席した事から始まる。
後鳥羽上皇の熊野詣(熊野三山参詣)の留守に、宮中女官が秘密裡に法然門下の住蓮と安楽が催した念仏集会へ参加し、感銘を受けた女官数名が出家してしまったのである。
出家した二人の女官は、鈴虫姫・松虫姫と云い、美しい姉妹で上皇の寵愛を受けていたが、妬まれて辛い想いを抱えていた。
帰京し、彼女たちの出家の報せを受けた後鳥羽上皇は激怒し、住蓮と安楽を捕らえた。
当時、主を持つ身分では自由意思の出家は許されていなかったのであろう。
主の許可や仔細報告なしに行動することは、忠義に反すると捉えられたに違いない。
増して、後鳥羽上皇は京都における絶対権力者であったから、猶更許せない事だったと推測される。
さらに延暦寺や興福寺の僧侶達は、法然の弟子達と女官達のスキャンダルをでっち上げた。
後鳥羽上皇は彼らの中傷をそのまま利用し、住蓮と安楽を含めた主催者4人を死罪にしたのである。
その余波を受け、法然を含む浄土宗僧8人も流罪となった。
松虫姫と鈴虫姫は処罰を知らず、紀伊の国(和歌山県、三重県南部)に隠れ住んでいた。
しかし、捕らえられた住蓮と安楽の消息が気がかりで都に戻り、二人の処刑を知る。
住蓮と安楽に対する自責の念から二人の姫は、自らの命を絶ったと云う。
終わりに
全ての人の救済を目指した法然上人は、多様な階層の弟子達を受け入れた。
山伏・陰陽師・強盗などや、高位の公卿「九条兼実」のような教養が深い人物もいた。
そして朝廷警護や、源頼朝の東大寺修復で京都に滞在した東国御家人達が、法然の教えと出会い、救いを求めた。
旧仏教にはないシンプルさが、合戦で明日の命運を知り得ぬ東国武士層に受け入れられたのだろう。
その後、朝廷より京都周辺から追われた浄土宗を始めとする新仏教勢力は、東国へ進出する。
権力と同様、宗教勢力も東国へ移動する流れが始まったのである。
参考図書
日本の歴史09「頼朝の天下草創」
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