鎌倉時代

中世の女性の職業 「彼女達はどうやって稼いでいたのか?」

日本の中世は、基本的に自助の世界だった。

財産を分け与えられた貴族や御家人子女と違い、庶民女性は夫や親を当てに出来ず、自ら稼ぎ手となった。

中世の女性達はどのように生計を立てていたのだろうか?

桂女(かつらめ)

中世の女性の職業

画像:『三十二番職人歌合』(1494年)に描かれた「桂の女」(桂女)

中世女性の職業は商人が多い。彼女たちは販女(ひさぎめ)と呼ばれた。

中でもよく知られた販女が「桂女 : かつらめ」である。

頭に白布を巻き、前で結んだ桂女包みという特徴ある身なりだった。
元々平安後期、天皇へ桂川の鮎を献上する鵜飼い供御人(くごにん)、つまり朝廷に仕え、天皇の飲食物を納める人々から始まった。

鎌倉時代は頭を白い布で巻き、鮎の桶を頭に乗せて売り歩く桂(京都市西京区の桂川右岸、西側一帯)から来た女性を示した。

12世紀 ~ 16世紀期に構成された「三十二番職人歌合」にも描かれているので、平安の終わり頃には、見られたのではないか。

ところが、室町時代に入り鵜飼いが廃れると、鮎を発酵させた「なれずし」や勝栗・飴の食品や酒樽といった道具類も売り歩くようになる。

京都内を超え、関西の公家や寺院、守護大名の屋敷を活動範囲とし、遊女(神と遊び神託を受ける巫女存在と男性客を遊ばせるという二つ意味を持つ)の役割さえあったと云われる。

大原女(おおはらめ)

中世の女性の職業

画像:大原女絵図 室町時代に職人編纂された『尽歌合』(しょくにんずしうたあわせ)40巻の9番。国立図書館

「桂女」と同じように売り歩く商売が、「大原女 : おおはらめ」である。

大原女は、山城国大原(京都府京都市左京区大原)の女性が、薪を頭に載せて京都内で売り歩く姿を指す。

薪の他に炭の産地だったので、大原女は最初炭を売っていたが、鎌倉時代より他地域が炭名産地に浮上したため、大原女は薪や柴を商うようになった。

大原女の頭に薪を載せる風体はかなり前から知れ渡り、紺の筒袖・前結びの帯・白い脛に巻きつけ紐で縛る脛布(はばき)姿の行商は、目立った。
その姿に趣を感じたのか、1161年~1165年頃(平安末期)に出来た30人の漢詩集「本朝無題詩」には、大原女を題材にした詩がある。

中世の職人をテーマにした歌(詞)入り絵草子「職人歌合」や狂言にも取り上げられ、江戸時代は美人画、明治以降は日本画や洋画の画題となった。

「大原女」の行商人スタイルは、なんと昭和時代まで続いた。

梓巫女(あずさみこ)

中世の女性の職業

画像:梓巫女 建保職人歌合」国立国会図書館蔵

梓巫女(あざさみこ)は、梓の木製の弓を弾き死者を呼び出したり、神託やまじないをおこなったと云われる。

彼女達は、定まった神社に奉仕する巫女ではなく、彼方此方渡り歩く存在だった。
「市子」「口寄せ」とも呼ばれ、活動は、主に東国(関東・東北地方)だった。

彼女達の手掛りは、鎌倉末期~江戸時代までに出来た御伽草子「扇合物語」別名・花風物語にある。
この物語では、梓巫女の姉妹・花鳥風月が登場する。

扇合(左右組に分かれ、扇を出して風情やデザインを競う)をしていた貴族が、扇絵の主を巡って在原業平光源氏かと、意見が食い違った。
そのため、出羽国羽黒山からやって来た二人の梓巫女を招木、彼女達に絵の主の正体を見極めさせようとしたのである。

二人は梓弓を弾いて、霊の呼び寄せを始める。
風月は業平の聞き手になり、花鳥は光源氏に乗り移らせて、生涯を語らせる。

梓巫女は、死者と生者を繋ぐ特別な力を持つと認識されていた。

牙儈(すあひ)

中世の女性の職業

牙儈(すあひ)七十一番職人歌合 四十一番目

牙儈(すあひ)とは、どんな職業だろうか?

本来は、売買の間を取り持つ仲買、または仲介し手数料を取る女性を表している。
七十一番職人歌合の牙儈(すあひ)は、「御用に伺います」を掛け声にして商売を行った。

中世末期の牙儈が、御伽草子「御用の尼」で描かれている。

老法師の庵に、牙儈の老尼が立ち寄る。
彼女はかんざしや小物・薬を頭に載せた袋に入れ、貴族や大名、家来衆の屋敷に出入りしていると話す。
その後、若い貴族の娘を紹介しようと老法師に話を持ちかけるのである。
彼は気持ちが動き、彼女に仲介を頼んだ。すると灯りを灯さず迎えるよう指示され、指示に従って娘を招く。
しかし、朝日が照らした娘の顔は、老尼そのものだったというオチである。

牙儈(すあひ)は、衣料品・小物・薬品を売り歩き、商売で知り得た情報で男女の仲を取り持つ仕事をしていた。

更に「御用の尼」のように、自らを仲介する役割さえ果たした訳である。

借上(高利貸し)

画像 : 横瀬浦のルイス・フロイス像 ©長崎県観光連盟

女性が財産を持ち、豊かになれた職業の一つに借上(高利貸し)がある。

平安末期~鎌倉初期頃の絵巻物「病草子」には、借上を生業とした肥満女性が載っている。

裕福で毎日の食事も豊かな彼女は、二人の小間使い女性に支えられてやっと歩く有様だ。
中世で肥満姿は滅多に見られず、いわゆる富の象徴として彼女は描かれている。

中世では借上の女性は珍しかったのか、幕町幕府の訴訟手続き記録「賦引付」は、以下の通り女性貸し主の名前がある。

・九郎殿被官彦八が女房 5貫文
・女房阿茶 6貫文
・越後屋五郎左衛門女茶々 5貫文
・北小路大宮酒屋 大西左衛門太郎後家 9貫877文
・播磨州坂本今倉後家 4貫文

他に数多くの女性の名前が続く。

しかも、上記の越後屋五郎左衛門女茶々は夫も貸主として別記されている。
つまり彼女は夫の商売とは別に独立して金貸しを行っていたと考えられる。

戦国時代、来日したポルトガル宣教師ルイス・フロイスは「日本覚書」別名「日欧文化比較」おいて夫婦財産の違いを述べている。

ヨーロッパでは夫婦財産は共有であるが、日本では各々が自分の所有財産を持ち、妻が夫に貸し付ける場合さえある。

驚きを持って書かれたであろう文章は、中世における借上女性の逞しさを語っている。

終わりに

古来より日本には、神の依り代(神霊が憑く対象)は女性だという信仰があった。

あの世とこの世を繋ぐ巫女は、その典型的存在だった。

漁師が川から取った鮎は唯の魚ではなく、川神から授かったモノである。
川神とこの世を結ぶのが桂女であり、同様に大原女は山神と俗世の仲達ちをする。

牙儈が物を作る職人と、それを求める人や男女間を繋ぐ行為は、霊的な交流の延長と見られていたのかもしれない。

借上女性さえ、銭神と借主の間を取り持つ存在になる。

中世の女性達が、間を繋ぐ古来からの役目を果たしつつ、したたかに稼いでいた実情が浮び上がる。

参考図書 : 日本の中世3「異郷を結ぶ商人と職人」

 

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