鎌倉殿の13人

果たされなかった兄弟との再会…源平合戦に散った頼朝公の弟・源義円【鎌倉殿の13人】

時は永暦元年(1160年)、世にいう平治の乱に敗れた源氏の棟梁・源義朝(みなもとの よしとも)が非業の死を遂げ、その遺児らは伊豆国へ配流とされた源頼朝(よりとも)公以下、各地へ散り散りにさせられました。

以来20年に及ぶ長い雌伏の時を経て、頼朝公は捲土重来の旗揚げ、ついには源氏の天下を実現。

やがて武士の世を切り拓いていくのですが、父の仇である平氏打倒に立ち上がったのは、彼だけではありませんでした。

そこで今回は義朝の遺児・源義円(ぎえん)を紹介。その生涯をたどってみたいと思います。

命を救われ、出家する

義円は久寿2年(1155年)、源義朝の八男として誕生。幼名は乙若丸(おとわかまる)、母親である常盤御前(ときわごぜん)から生まれた二番目の男児であることが判ります。

同母の兄に今若丸(いまわかまる。後の阿野全成)、弟に牛若丸(うしわかまる。後の源義経)がおり、平治の乱後、兄弟はバラバラにされました。

再起を誓い鍛錬に励む牛若丸。楊洲周延「牛若丸鞍馬山に武術を学ぶ」

当時6際だった乙若丸は園城寺で出家、円成(えんじょう)と称します。

円成とは母の再婚相手である一条長成(いちじょう ながなり)と、継父の伝手で仕える事になった円恵法親王(えんけいほっしんのう)から一字ずつとったもの。

自分の名前を分け与えたくらいですから、歳の近い円恵と円成の二人は兄弟のような絆を育んだのかも知れませんね。

かくして助命された乙若丸改め円成は、このまま仏門に帰依して穏やかな人生を送るものと思われましたが……。

頼朝公の挙兵に奮起して、叔父・源行家の下へ

「どうしても行くのか」

「……はい。微力ながら兄者のお力になりとうございまする。殿下のご厚情、決して忘れませぬ」

治承4年(1180年)、異母兄の頼朝公が伊豆で反平氏の兵を挙げると、円成は加勢するべく還俗(げんぞく。僧侶が俗人に戻ること)。名前も亡父・義朝から一字をとって源義円と改名しました。

「……牛若も兄者の元へ駆けつけたと聞く。我も後れをとるまいぞ!」

さっそく園城寺を旅立った義円でしたが、鎌倉から別行動を命じられます。

(※『吾妻鏡』には義円と頼朝公のやりとりが記録されていないため、義円の独自行動との説も)

「ふむ、尾張国(現:愛知県西部)で兵を挙げた叔父御(源行家)の加勢へ参れ、とな。よし!」

源行家(ゆきいえ。新宮十郎)は亡父・義朝の弟で、かつて各地の源氏残党に挙兵を呼びかけた(※)反平氏の先駆け的存在でした。

各地の源氏に決起を呼びかけた源行家。Wikipediaより

(※)頼朝公に先んじて兵を挙げた以仁王(もちひとおう)の令旨を各地へ届ける密使を務めています。

しかし頼朝公とは仲が悪く、互いに反目していました。

(……あやつめ、甥のくせに嫡流気取りで叔父に臣従を求めるとは生意気な。大人しく従っても得はない……ここは一つ、独自に兵を率いて上洛すべし!)

そんな思惑を知らずにやって来た義円は行家の歓迎を受け、すっかり取り込まれます。

「さぁ、これから大手柄を立てて、鎌倉の兄者に喜んで頂こうぞ!」

「……ははは、大いに励まれよ(せいぜい広告塔として兵を集め、我が上洛の足しとなるがよいわ……)」

反平氏で一致した二人は、それぞれの思惑を抱えながら尾張国で勢力を蓄えるのでした。

功に逸って単騎で夜襲を仕掛けたが……

さて、叔父・源行家と尾張国に根を下ろした義円は、同国愛智郡の郡司・慶範禅師(けいはんぜんじ)の婿に迎えられ、男児をもうけました。

「源氏の御曹司を当家にお迎えできたことは光栄の至り……」

『平家物語』より、水鳥の羽音に逃げ惑う平家の軍勢

治承4年(1180年)10月の富士川合戦で頼朝公が平維盛(たいらの これもり)率いる追討軍を撃退して以来、源氏の人気はうなぎ上り。行家と義円の下には続々と兵が集まります。

「さて、そろそろ我らも行動を起こそうか」

明けて治承5年(1181年)3月、義円たちは再び源氏討伐にやってきた平重衡(しげひら)の軍勢と墨俣川(現:長良川)を挟んで対峙しました(墨俣川の合戦)。

「いよいよ初陣……腕が鳴るのぅ!」

「張り切るのはよいが、あまり功に逸って無理をなさるなよ?」

「ここで大手柄を立てて、鎌倉の兄者に喜んで頂かねば僧房を出て来た甲斐がないわい!」

(あぁ……こりゃ聞いとらんな。まぁ、敵は富士川で水鳥の羽音に驚いて逃げ出した連中じゃから、大事あるまいが……)

果たして義円はたった一人で敵陣に夜襲を仕掛け、見事に失敗。平家の軍勢に取り囲まれて高橋左衛門尉盛綱(たかはし さゑもんのじょうもりつな)に討ち取られてしまいました。享年27歳。

「今こそ富士川での汚名を返上する時、者ども、かかれ!」

「「「おおぅ……っ!」」」

先の雪辱を果たすべく、万全の態勢で臨む平家方を侮っていた行家は惨敗を喫し、這々(ほうほう)の態で信州の木曾義仲(きそ よしなか)の元へと逃げ込みます。

これが後に頼朝公と義仲の不和を招き、義仲滅亡後は源義経の元へ逃げ込んでこれまた対立の火種をもたらすことになるのですが、それはまた別の話し。

終わりに

功に逸って独り敵陣に斬り込んだ義円(イメージ)

かくして兄弟たちとの再会を果たすことなく非業の死を遂げた義円でしたが、頼朝公に喜んで欲しい一心で手柄を立てたがった(そして功に逸って自滅してしまった)のは、弟の義経に通じるものを感じますね。

その後、義円の遺児は祖父に養育され、愛智荘を領して愛智蔵人義成(あいちの くろうどよしなり)と改名。その子孫は尾張国の豪族としてその血脈を保ちました。

令和4年(2022年)放送予定の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ではまだ配役(そもそも登場するか否か)も定かならぬものの、行家(演:杉本哲太)の曲者キャラを引き立てる上でも重要人物ですから、是非とも登場させて欲しいですね。

※参考文献:

  • 川合康『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』吉川弘文館、2009年11月
  • 元木泰雄『敗者の日本史5 治承・寿永の内乱と平氏』吉川弘文館、2013年3月
角田晶生(つのだ あきお)

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