偉大なる父の重圧から反発し、それを乗り越えようと葛藤し、暴走の挙げ句に自滅していった……そんな悲劇は古今東西いくらでもあります。
そんな一人が鎌倉に幕府を草創し、その後600年以上にも及ぶ武士の世を切り拓いた源頼朝(みなもとの よりとも)公の嫡男・源頼家(よりいえ)。
とかく暴君として知られるこの2代目将軍。鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡(あづまかがみ)』には書かれていないものの、頼朝公の跡目を継いで鎌倉殿となった頼家は、事あるごとに御家人たちから
「亡き御殿(おんとの。ここでは頼朝公)は、御殿は……」
などと比べられ、コンプレックスを掻き立てられたことが想像に難くありません。
確かに頼家の暴挙(例えば御家人の愛妾を奪ったり、僧侶の黒衣を「辛気臭い」と焼き捨てたり、気まぐれで御家人の所領を没収したり……等)も暴挙ですが、こうした非行の動機は、その多くが子供の頃に充分愛されなかった(愛情を感じられなかった)ことにあると言います。
頼家と御家人たち、そして母である北条政子(ほうじょう まさこ)との関係がギクシャクし始めたのはいつからか……今回はそんな頼家の少年期「富士の巻狩」エピソードを紹介。
こうした過去を含めて見ると、頼家にもちょっと同情の余地があるかも知れません。
若君の初手柄!喜びに沸く頼朝公や御家人たちの祝福に対して……
時は建久4年(1193年)5月、頼朝公は当年12歳となった頼家を連れ、御家人たちを従えて富士山の裾野で大規模な巻狩りを行いました。
巻狩りとは狩場を大人数で囲んで茂みから追い立てた(巻いた)鳥獣を狩るもので、単に遊興や食糧確保のみならず、神事や軍事訓練のために行われた武家の慣習です。
今回の巻狩りは「清和源氏の嫡流」にして「武家の棟梁」である頼朝公自身のアピールはもちろんのこと、その跡目を継ぐ若君・頼家を御家人たちにお披露目する意味もありました。
そんな中、5月16日に頼家が初めて鹿を射止めます。
「おお……若君の初手柄じゃ!」
「的確に獲物を射止める矢筋の鋭さ……いやはや、血は争えませんな」
「思い起こせば石橋山で御殿が……」云々。
さぁ、武家の子息にとって生まれて初めて獲物を射止めるというのは大切な節目。頼朝公は一同に命じてその日の狩りを終了し、矢開(やびらき。矢口の祭り)を執り行わせました。
人生で初めて射止めた獲物を山の神様にお供えすることで一人前の武士になったことを報告し、また山の神様からそのようにお認め頂く儀式です。
併せて頼家にとっては単なる成人の通過儀礼ではなく、次代の鎌倉殿として、頼朝公の後継ぎとなることを正式に認められたものと見なされました。
「いやぁ、めでたいめでたい!」
「これで鎌倉も安泰じゃ!」
頼家本人が嬉しかったのはもちろんとして、頼朝公のそれはもう喜んだこと、御家人たちからも惜しみない賞賛が贈られ、その真っただ中にいた頼家は、天にも昇る心地だったかも知れません。
「おぉ、さっそく鎌倉の皆にも報せてやらねば……平次、ひとっ走り頼んだぞ!」
「ははぁっ!」
喜び勇んで鎌倉へと走った梶原景高(かじわらの かげたか。景時の次男・平次)。御台所様もさぞお喜びになろうと胸を躍らせ伝えましたが、政子の反応は実に手厳しいものでした。
「は?武士の子が狩りで獲物を射止めるなんて何が珍しいの?そんなことをわざわざ伝えに来るとかバカじゃないの?」
(武将の嫡嗣として原野の鹿鳥を獲たること、あながちに稀有とするに足らず。楚忽の専使すこぶるその煩あるか)
源氏の嫡流と言えば、頼朝公の高祖父である八幡太郎こと源義家(よしいえ)は10代で初陣を飾り、鹿どころか敵を討ち取っているというのに、何を平和ボケしているのですか!
……完膚なきまでのド正論に景高までもが恥をかかされ、面目を失ってしまったのでした。
終わりに
「そう、か……母上が……」
景高より報告を受けた頼家が、さぞやガッカリしたのは想像に難くありません。
ただ褒めてもらえなかったばかりでなく、自分たちの不覚悟も指摘されて、二重のショックを受けたことでしょう。
12歳(満11歳)と言えば、現代であれば小学5年生から6年生。確かに政子の𠮟咤激励も正論ですが、いくら武士の子とは言え、やはり子供には違いなく、少しくらいは褒めてあげてもよかったのではないでしょうか。
「このくらいでは、母上は満足なさらぬ……もっとこう、父上よりも凄い、前例や慣習なんか力づくで覆し、世の者どもを驚かせるようなことを成し遂げて、いつかきっと見返してやるんだ!」
親に認めてもらえなかった、愛情を感じられなかった子供は、いくつになっても苦しみを抱え続け、それが頼家の暴走につながっていったのかも知れません。
けっきょく最期まで解り合えることなく、元久元年(1204年)7月18日に頼家は23歳で暗殺されてしまうのでした。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では金子大地さんが演じる源頼家、その苦悩と葛藤に裏づけられた暴君ぶりを、是非とも魅せて欲しいものです。
※参考文献:
- 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」 (朝日新書)』朝日新書、2021年11月
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