時政の闘争の顛末
北条時政は、三代将軍・実朝の執権として幕府の実権を握った。
しかしここまでの経緯は、暗殺に次ぐ暗殺である。
まずは2代将軍・頼家が重用したライバル比企氏を義時らに襲撃させて滅亡させた。そしてひ孫・一幡を義時の手勢で暗殺させ、実の孫・頼家まで担がれることを恐れて暗殺してしまったのである。頼家を暗殺させたのも義時の手勢の者であったという。
そして時政の次なる標的となったのが、武蔵国の有力御家人・畠山重忠であった。
時政とその後妻・牧の方との間には娘がおり、その娘婿・平賀朝雅を、時政と牧の方はいずれ将軍にしようと思っていた。
時政は武蔵国を自分のものとするために、平賀朝雅を武蔵国の国司に据え、時政はその後見人になった。
しかし、平賀朝雅は京の都の警護を命じられて上洛することとなった。時政はその隙に「武蔵国の御家人たちが反旗を翻すのではないか?」と恐れた。
畠山重忠は武蔵国の最有力御家人であったため、時政は「重忠を潰せばその恐れ(憂い)はなくなる」と考えたのである。
元久2年(1205年)6月、時政は重忠にありもしない謀反の疑いをかけ、義時にその討伐を命じた。
ところが、義時は「重忠に何の怒りがあって謀反を起こすのかわからない。謀反が誠かどうか確かめてからでも遅くはないのでは?」と反論した。
これまで父・時政の命に従ってきた義時だったが、今回ばかりは討伐をやめるように諫めたのである。
畠山重忠は時政の娘婿でもあり、義時の義理の弟にあたる。義時と重忠は交流が深くとても仲が良かった。さらに重忠は知勇兼備な上に清廉潔白な人物として知られ、幕府に強い忠誠心を持っていた。
さすがの義時も、今回ばかりは反対したのである。
しかし結局父に逆らえなかった義時は、大軍を率いて重忠を攻めることになった。
義時率いる幕府軍と重忠軍は激突し、幕府軍が勝利し重忠を討ったが、義時は重忠の首を見て涙にくれ、鎌倉に戻ると時政を激しく糾弾した。
義時は「謀反など嘘だ。あんなわずかな兵で謀反なんか起こすことはできない。父上によって殺された重忠が可哀そうでならない」と父に喰ってかかったのである。
しかし時政の暴走は止まらなかった。
今度の時政の標的は、なんと三代将軍・実朝であった。実の孫で三人目の「鎌倉殿」である。
後妻・牧の方と共謀し実朝を暗殺し、四代将軍に娘婿・平賀朝雅を据えようと真剣に画策したのである。
この陰謀に気付いたのが、義時の姉で実朝の実母・政子だった。
自分の息子・実朝の危機を救って欲しいと助けを求められた義時は、すぐに実朝を自分の屋敷に匿った。
そして有力御家人の三浦義村の協力を得て、時政と牧の方を鎌倉から追放し、将軍の暗殺計画を未然に防いだのである。更に義時は京の都にいた平賀朝雅も殺害させた。
義時は二代将軍・頼家に次いで、三代将軍・実朝まで殺害しようとした父・時政が許せなかったのである。
義時は常に実朝と政子を表に立てながら、政所別当・大江広元や頼朝の流人時代からの近臣・安達景盛らと連携し、幕府の最高責任者として実権を握り、幕府の二代執権となった。
この時の義時は43才であった。
父を追放し幕府No.2の執権に就任した義時であったが、ここまでは父の命に背けずに従ったとも言え、腹黒なイメージはまだ薄いかもしれない。
時政の追放によって幕府の権力闘争は一旦終息したが、この後、思いもよらない争いがまた起きることとなる。
幕府を揺るがす謀反計画
建暦3年(1213年)暗殺された頼家の忘れ形見を担いだ謀反の計画が噂される(※泉親衡の乱)
その計画には、侍所別当の和田義盛の一族も関与しているという。
嫌疑をかけられた数名が幕府に捕えられた。
和田義盛は頼朝の頃から源氏に仕えた御家人の長老で、十三人の合議制のメンバーでもあった実力者である。
その和田義盛の息子・義直、義重と、甥の胤長が反乱に加担したいたということで捕縛されてしまったのである。(息子2人は許されたが甥の胤長は流刑となった)
翌年の建保元年(1214年)何故か義時は、謀反計画に関与していなかった和田義盛を挑発し続けた。そしてこれに怒った義盛は、ついに義時の館を襲撃したのである。(※和田合戦)
結局、義盛は幕府への反逆者として討ち取られ、和田氏はほぼ滅亡してしまった。和田一族の首級は234にのぼったという。
これによって義時は義盛がついていた侍所別当に就任した。政治だけでなく軍事も掌握した執権・義時の権限はより強固なものになった。
こうした状況から「和田合戦は実は義時が仕組んだのでは?」とも言われている。
義時が侍所別当の地位を得たいがために、父・時政のように陰謀を計画したと噂された。
だが和田一族が「幕府転覆のクーデター計画」に加わっていたことは、近年の調査・研究で間違いではなかったとされている。
義時は、大規模な反乱を起こさせる訳にはいかないと考えたのである。
しかしこの後、義時が考えもしなかった悲劇が訪れてしまう。
実朝の暗殺
承久元年(1219年)1月27日、将軍・実朝が右大臣の位を授かる祝賀の儀が、鶴岡八幡宮で行われた。
その晩の午後8時、無事に儀式が終了し、実朝が本殿から石段を下りていくと、突如飛び出して来た1人の男に殺害されてしまったのである。
この時、実朝は28才だった。
実朝の護衛の武士たちが駆けつけてきた時には、すでに犯人は実朝の首を持ち去っていたという。
その犯人は鶴岡八幡宮の別当(長官)を努める公暁(くぎょう)、二代将軍・頼家の次男で実朝の甥であった。
父・頼家から将軍の座を奪ったことの逆恨みの犯行とされたが、その裏には公暁を操った黒幕がいたとも言われている。
最も怪しいとされたのが義時だった。
実朝は将軍としての権威づけのために、朝廷から高い官位を貰い続けていた。
更に、将軍就任の翌年に京の公家・坊門家から正室を娶っていた。
坊門家は朝廷の実権を握っていた後鳥羽上皇の母親の血筋、つまり実朝と後鳥羽上皇は姻戚関係を結んでいたことになる。
そして、後鳥羽上皇と共通の趣味である和歌を通じて関係を深めていった。
その中で実朝は、義時がいる政所の改革に乗り出し、政所の別当を5人から9人に増やし、そこに後鳥羽上皇の近臣など朝廷よりの者を置いた。
つまり北条氏を含めた御家人の力を弱めようとしていたのである。
義時はそういう実朝の行動に危機感を抱き、暗殺を企てた黒幕だと言う説もある。
それに対して、義時が実朝を暗殺するというのは考え難いという意見もある。
その理由として、北条氏にとって頼朝と政子の間にできた子である実朝は、最大の権力基盤であったからだ。
いくら朝廷と親しくしていても、権力基盤である頼朝の血を引いている唯一の男子・実朝を殺すことはありえないとも考えられる。
このように様々な説があるが、真相は闇の中である。
次期将軍問題
実朝の暗殺に幕府は慌てたが、源氏の血が絶えた場合には後鳥羽上皇の親王を将軍にするという密約を交わしていた。
幕府(義時や政子)は、次期将軍問題は円滑に進むと考えていた。
ところがなんと、上皇が親王を東下することを先送りにしたのである。
さらに上皇は、自分が寵愛していた白拍子(遊女)の持つ所領を管理する地頭を罷免する「院宣」を出し、これを認めろと幕府に要求したのである。
地頭を罷免することは幕府の権威を脅かす行為であるため、義時は「頼朝公が恩賞として任命した地頭を罷免するなどできぬ」と、上皇の要求を拒否し、御家人を守るという態度を見せた。
そこで義時は1,000騎の兵を上洛させこの回答を上皇に伝えたが、上皇も折れなかったため、義時は「親王を将軍にできないのであれば、他の子を出すように」と求めた。
これに対し上皇は「摂関家の子であれば問題ない」と義時の要求に応えた。
こうして頼朝の遠縁にあたる摂関家の九条家から次期将軍を出すことが決定し、たった2歳の「三寅(後の藤原頼経)」を四代将軍として迎え入ることになった。
将軍はまだ2歳と幼かったので、後見人には政子がつき「尼将軍」と呼ばれることになった。
半年に渡った将軍後継問題も終わり、これで幕府と朝廷の関係は良好になるだろうと思っていた義時だったが、この後、義時の人生を左右する大きな問題が起こるのである。
承久の乱
後鳥羽上皇は、義時が義兄・伊賀光季と娘婿・大江親広を京都守護として上洛させたこと、「院宣」を無視されたことを怒り着々と軍備を拡張していた。
承久3年(1221年)5月14日、上皇は「流鏑馬揃い」と称して諸国の兵を招集し、院政内の親鎌倉派を粛清し、京都守護・伊賀光季を殺害し倒幕の挙兵をしたのである。
翌日には「北条義時追討の宣旨」が全国に発布され、諸国の守護・地頭たちに「上皇のもとに馳せ参じよ」という命が出された。
上皇は、何故義時一人を追討する宣旨を出したのか?
それは上皇が出した「院宣」を拒否し、自分に抵抗した義時がいる限り武士たちを従わせることはできないと考えたからである。
また、義時追討の宣旨を出すことによって幕府が義時派と反義時派に分裂して潰し合いをすることを狙っていたとも言われる。
義時追討の宣旨は鎌倉にも届いていた。
古(いにしえ)より「追討の宣旨」を受けて討伐されなかった者は一人もいなかった。
窮地に立たされた義時だったが、このピンチにあの人物が立ち上がるのだ。
尼将軍
御家人たちの前に現れたのは「尼将軍」こと北条政子だった。
政子は御家人たちを前に「皆、心を一つにして聞きなさい。これが最後の言葉です。頼朝殿の恩は山よりも高く、海よりも深い。三代に渡る源氏将軍の恩顧に今こそ報いるべきです」と語った。
この政子の演説が御家人たちを鼓舞し、朝廷との戦いを決断させたのである。
そして、その日のうちに義時を交えた軍議が開かれ、多くの味方を得た義時は奮い立ち、19万の幕府軍を派遣、上皇軍を見事蹴散らし「承久の乱」に大勝利した。
乱に加担した公家や御家人は次々と処刑され、上皇は壱岐へ流罪とした。
この時、義時はさすがに悩んだ。
反乱の中心人物である後鳥羽上皇に、このまま京にいてもらう訳にはいかない。
かといって流罪として壱岐で上皇が亡くなって怨霊となってしまうと、自分や幕府が祟られてしまうとも考えたが、それも覚悟の上で上皇を流罪としたのである。
承久の乱に勝利したことで幕府の支配権は西国にも及び、義時は東国から全国の統治者となった。
その後も幕府の執権として政務に励んだ義時だったが、貞応3年(1224年)6月13日、義時は病死、享年62であった。
おわりに
北条義時は、自らの意思に関わらす権力闘争の場におり、周りの騒動に巻き込まれる壮絶な人生であった。
北条氏の一員として生まれ、逃れられない運命だったのだろう。
朝廷から迎えた四代将軍以降、将軍は名ばかりのお飾りとなり、幕府の実権は完全に執権が持つようになった。
「得宗家」と呼ばれた義時の子孫は、鎌倉幕府の滅亡まで代々その地位についたのである。
父・時政を追放した後の義時は「腹黒く悪い人間」であったのか証拠はないが、腹黒くないとこれだけの権力を持つことはなかったであろう。
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