建保5年(1217年)6月20日、京都での修行から鎌倉へ舞い戻った公暁(演:寛一郎)。彼は鶴岡八幡宮寺別当に就任しました。
そんな公暁に仕えた稚児の一人が駒若丸(こまわかまる)。彼は三浦義村(演:山本耕史)の子で、後に鎌倉に大事件を引き起こすことになります。
今回は『吾妻鏡』より駒若丸あらため三浦光村(みうら みつむら)の生涯をたどってみましょう。
駒若丸(三浦光村)の生い立ち
三浦光村は元久2年(1205年)、義村の三男(諸説あり)として誕生しました。義村は公暁の乳母夫ですから、光村と公暁は乳兄弟ということになります。
駒若丸は幼名、元服して名越光時(なごえ みつとき。北条義時の孫)から一文字をもらって三浦光村と改名しました。
通称は駿河三郎(するがのさぶろう)。これは父・義村が駿河守であったため、その三男の意味です。
この名越光時は北条朝時(演:西本たける)の子。父が北条泰時(演:坂口健太郎)に嫉妬し、かつ(側室の子と)見下していたのと同じかそれ以上に泰時の家系(後の得宗家)を敵視していました。
そのことが、光村の人生を大きく方向づけることになったのでしょうか。
『吾妻鏡』の初登場はまだ駒若丸時代の建保6年(1218年)9月、鶴岡八幡宮寺の境内で乱闘騒ぎを起こして出仕を止められてしまうというもの。のっけから血気盛んな三浦一族らしいデビューです。
公暁とどのような関係を築いていくのか楽しみな中、建保7年(1219年)1月に公暁が実朝を暗殺してしまいました。
この時に何も咎められなどしていないことから、駒若丸たちは無関係であったと考えられます。
あるいは公暁を粛清した父・義村によって、暗殺に加担協力した事実をもみ消されたのかも知れません。
将軍派として、藤原頼経の復権を狙う
その後、光村は第4代鎌倉殿となった三寅(みとら。藤原頼経)に仕え、以来約20年にわたって忠義を尽くしました。
しかし仁治3年(1242年)に第3代執権・北条泰時(演:坂口健太郎)が亡くなると、政治の実権をめぐって将軍派と執権派が対立を深めます。
名宰相と誉れ高い「俺たちの泰時」ならば、執権政治もまだ納得できました。
それがまだ若い北条経時(つねとき。泰時の孫)が第4代執権では心もとない、と不満の声が高まったようです。
さらには経時も寛元4年(1246年)閏4月1日に亡くなります。その弟である北条時頼(ときより)が第5代執権に就くと、いよいよ将軍派の不満は頂点に。
藤原頼経(この時点で既に将軍位を譲って大御所に)の復権を望む勢力が時頼ら執権派の排除を企みました。これを後世「宮騒動」と呼びます。
将軍派はアンチ得宗家(北条嫡流)筆頭の名越光時を中心に、名越時幸(ときゆき。光時の子)・千葉秀胤(ちば ひでたね)ら。もちろん光村も加担しました。
対する執権派は北条政村(まさむら。時頼の曾祖叔父)はじめ北条実時(さねとき。同じく又大叔父)・安達義景(あだち よしかげ。安達景盛の子)など。
執権派は調略をもって将軍派を翻弄、その挙兵を最小限に食い止めました。
この時、将軍派の重鎮である三浦一族の棟梁・三浦泰村(やすむら。光村の兄)は執権派との和解を望んで中立を保ちます。
そのせいで挙兵は失敗に終わったのですが、執権派も事を荒立てたくないため、将軍派への処罰は最小限に抑えました。
光村も特に罰せられることなく、大御所・頼経の京都送還(追放)を護衛します。
「必ずや大御所様を、再び鎌倉へお迎えしとう存ずる(相構えて今一度鎌倉中へ入れ奉らんと欲す)!」
まさに落涙千行、敬愛する頼経との別れに光村は打倒北条の野心を新たにするのでした。
執権派との最終決戦「宝治合戦」
かくして執権派と将軍派の対立は続き、年が明けて宝治元年(1247年)。それまで高野山で隠棲していた大蓮房覚地(俗名:安達景盛。盛長の子)が鎌倉へ舞い戻ります。
するとさっそく将軍派筆頭となっていた三浦一族に対して執拗な挑発を開始しました。
これは安達一族の(三浦を追い落とし、執権北条氏に対する存在感を維持したい)都合によるもので、光村たちもこれに甘んじるつもりはありません。
しかし兄・泰村は北条との開戦を望まず、時頼もまた三浦との融和姿勢を維持。双方仕掛けられずに月日が過ぎます。
両陣営が暴発を抑える中、ついに6月5日に安達陣営が兵を挙げ、三浦陣営へ襲撃。後世に伝わる「宝治合戦」の幕開けです。
安達の出陣を呼び水として、それまで鎌倉に蟠踞していた両軍が戦闘を開始しました。
しかし先手を打たれた三浦陣営は守勢に周り、しかも兄弟間で足並みが揃いません。
光村たちは「難攻不落の永福寺(ようふくじ)に籠城すれば、援軍が駆けつけるので地形を活かして挟撃できる」と主張しました。
(※)先の宮騒動により、鎌倉から追放された千葉介秀胤たちが本拠地で力を蓄えていたのでした。
しかし泰村は「もうダメだから、せめて法華堂(現:頼朝公墓)の霊前に集まり、忠臣として最期を迎えよう」という闘志のなさ。
総大将がそんなことでは、勝てる戦さも勝てません。
それでも棟梁を見捨てる訳には行かず、光村たちは永福寺を放棄して泰村たちに合流しました。
光村たちは奮戦したものの、天の時・地の利・人の和いずれも調わず、とうとう一敗地に塗れるのでした。
三浦一族は次々と自刃して果て、子供たちの始末をつけた光村も、いざ自分の番が回ってきました。
自分の死に顔を敵に見せるのが癪に障るので、光村は自分の顔をズタズタに切り裂いたと言います。
その甲斐あって、光村の首級はその判明に手間取りました。原形を留めぬほどに切り裂かれた光村の首級はさぞやおどろおどろしく、検分した者たちもトラウマだったかも知れませんね。
こうして源家累代の御家人・三浦一族は滅亡。執権北条氏による実質的な独裁体制が確立されていきます。
終わりに
以上、公暁の稚児として使えた駒若丸(三浦光村)の生涯を駆け足でたどって来ました。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」における登場期間は短いものの、公暁とどのような人間関係が描かれるのか、かねて楽しみにしていた一人。
まさか本作で割愛されるなんてことはありません……よね。ね?
※参考文献:
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 8承久の乱』吉川弘文館、2010年4月
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 11将軍と執権』吉川弘文館、2012年1月
- 細川重男『宝治合戦 北条得宗家と三浦一族の最終戦争』朝日新書
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