1333年、元弘の乱で鎌倉幕府を打ち倒した後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、新たな政治体制『建武の新政』を開始した。
この新政を支えるために特に重用された四人の寵臣は、『三木一草 (さんぼくいっそう)』と呼ばれている。
彼らは後醍醐天皇の側近として重要なポストに就き、新政の運営を支えたが、政権の挫折と共に相次いで戦死してしまう。
今回は、この「三木一草」の活動とその背景について探っていく。
三木一草とは
三木一草とは、後醍醐天皇を支えた四人の側近、結城親光、楠木正成、名和長年、千種忠顕を指す総称である。
この名称は、それぞれの人物の名前や官職から一字ずつ取って組み合わせたものである。具体的には、結城親光の「ユウキ」の「キ」、楠木正成の「クスノキ」の「キ」、名和長年の出身地である伯耆国(ほうきのくに)の「ホウキ」の「キ」、そして千種忠顕の「チクサ」の「クサ」を合わせて「三木一草」となっている。
この言葉が広まったことは、西予市の文化財に指定されている『紙本墨書歯長寺縁起』という冊子に記されている。
「三木一草と仰がれる人、三木已に倒れ一草のみ残れり。これは千草の宰相殿の事なり」
彼らが亡くなった後、50年以内には「三木一草」という言葉が広まっていたことを示しており、彼らの功績とその後の運命が、当時の人々に深く刻まれていたことが伺える。
結城親光(ゆうきちかみつ)について
結城親光は、氏族である白河結城氏の2代当主である結城宗広の次男である。
彼は、1331年から始まった元弘の乱で数々の戦いに参加した。まず、彼は鎌倉幕府方として楠木正成が籠城する大坂の下赤坂城を攻め、その後の上赤坂城でも戦いを続けた。その後は幕府に反旗を翻し、足利高氏(尊氏)らと共に幕府の拠点である京都の六波羅探題を攻撃した。
後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒し、建武の新政が始まると、親光は新政を支えるために重要な役職に就いた。彼は恩賞方、雑訴決断所、窪所の役人として任命され、新政の運営に深く関与した。
親光の功績は新政の支柱として認められたが、その後の足利尊氏との内乱により波乱の運命を迎えることとなる。
楠木正成(くすのきまさしげ)について
楠木正成は、河内国(現在の大阪府)出身で、悪党と呼ばれた楠木正遠の息子であり、極めて優れた武将だった。
元弘の乱で、後に征夷大将軍となる護良親王と協力して千早城の戦いに参戦した。この戦いでは、巧みな戦略で大規模な幕府軍を千早城に引きつけ、その結果、日本全土で反乱を誘発させ、鎌倉幕府の打倒に大きく貢献した。
建武の新政が始まると、正成はその功績を認められ、最高政務機関である記録所の重要な役職に任命された。
正成はゲリラ戦法を得意としており、その戦術は後の江戸時代に「楠木流の軍学」として流行し多くの武将に影響を与え続けた。その活躍ぶりは、古典『太平記』においても三徳(智、仁、勇)を兼ね備えた武将として高く評価され、描かれている。
また、作家の北方謙三による歴史巨篇小説『楠木正成』でも大きく取り上げられており、今もなお、多くの人々を魅了し続けている人物である。
名和長年(なわながとし)について
名和長年は、伯耆国名和(現在の鳥取県西伯郡大山町名和)出身の武将。
長年に関する史料は少なく、多くのことは不明である。大海運業者や商業活動を行っていた武士であったという説もある。
元弘の乱では、隠岐島に流刑に処されていた後醍醐天皇が島を脱出する際に助け、後の討幕運動にも参加した。この功績により、後醍醐天皇からの信頼を得ることになる。
建武の新政が始まると、長年は伯耆守に任命され、さらに後醍醐天皇の護衛を務めるなど、重要な役割を担った。彼の商業向きの性格と多才な能力により、様々な役職を与えられ、新政の運営に貢献した。
新政を支える一翼として、多くの面で活躍したとされている。
千種忠顕(ちくさただあき)について
千種忠顕は、公卿(国政を担う最高の職位)である六条有忠の次男。
忠顕は博打好きであり、そのため父である有忠から絶縁を受けるほどだった。
後醍醐天皇と共に隠岐島に流されていた忠顕だが、天皇の脱出に伴い脱出し、六波羅探題との合戦に参加した。討幕運動に貢献し、各地の豪族に命令文書である綸旨を送り、広く支持を集めた。
建武の新政が始まると、3ヶ国の国司職に就任し、従三位・参議といった高位の役職にも任命された。これにより、彼は新政の運営において重要な役割を果たすこととなった。
栄光は長く続かない・・・
建武の新政で重要な役割を担った四人の武将、『三木一草』。
しかし、その後は足利尊氏を中心とする足利氏との内乱が始まり、彼らの栄光は短命に終わった。
結城親光 死没:建武3年(1336年2月23日)
新政から離反した足利尊氏を油断させ暗殺するために、偽って足利軍に降伏した。
しかし、「降参する者がなぜ鎧を脱がないのか」と問われ、計画が露見したと感じた親光は、そこで足利兵を次々と斬り倒した。
しかし、最後は返り討ちにあい、首を取られた。
楠木正成 死没:建武3年(1336年7月4日)
湊川の戦いで700余騎を率いて足利直義の軍勢に突撃し、一時は大軍を蹴散らした。
しかし、敵の6千余騎の援軍により状況は一変。16度の突撃を行うも次第に自軍は減り、最後は村の民家に駆け込み、腹心たちと共に自害した。
千種忠顕 死没:建武3年(1336年7月15日)
湊川の戦いで敗れた後、後醍醐天皇と共に比叡山へ逃れた。
しかし、その後の西坂本での戦いで足利直義に敗れて戦死した。
名和長年 死没:建武3年(1336年8月7日)
一度も戦わずに最後まで生き残っていた長年だったが、『太平記』によれば、そのことを恥じていたという。
足利軍が京都になだれ込んだ際には、もはや味方も少ない京都へと戻り、死ぬことが確定している戦へと身を投じて討死した。
終わりに
『三木一草』はその短い栄光の期間においても、日本の歴史に深い印象を残した。
彼らは形勢が圧倒的に不利になっても後醍醐天皇を最後まで支え、足利氏との激動の戦いを繰り広げたのだ。
彼らの信念や野望は今でも多くの人々に敬われ、その最期は後世に語り継がれている。
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