奈良時代

聖武天皇が何度も遷都を繰り返した「彷徨五年」とは

画像:聖武天皇 public domain

聖武天皇(しょうむてんのう)は、奈良の大仏を造仏した有名な天皇だ。
大仏を造仏し、仏教を深く信仰した天皇であったが、大仏を作る前の行動はあまり知らないという方も多いのではないだろうか。

聖武天皇の治世には、平城京を離れ何度も遷都を繰り返した彷徨五年(ほうこうごねん)という時期があった。
結果的には平城京に都を戻すのだが、なぜ聖武天皇は都を移したのだろうか?

今回は聖武天皇が平城京を離れていた五年間の行程を確認し、なぜ遷都を繰り返したのかその理由を探っていきたいと思う。

きっかけは藤原広嗣の乱?天然痘の蔓延?突然始めた関東行幸

聖武天皇は即位してから娘の孝謙天皇に譲位するまでの間、長屋王(ながやおう)、藤原四兄弟(藤原四子|武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ))、橘諸兄(たちばなのもろえ)という側近に支えられ国を治めていた。

最初の指導者であった長屋王は、藤原四兄弟の策略により長屋王の変に至り自害。
藤原四兄弟が政治を掌握した5年後、大陸から国内に天然痘が持ち込まれ、九州から徐々に広がり始める。
数年後には平城京にまで広がり、政治の中心にいた藤原四兄弟を含むほとんどの公卿も天然痘にかかり、病没することになった。

聖武天皇は政治体制を立て直すため、生き残った公卿の橘諸兄を大納言(翌年には右大臣)とし、橘諸兄を中心とした政治体制を整えた。

彷徨五年

画像 : 橘諸兄(たちばなのもろえ)『前賢故実』より public domain

しかし、朝鮮に対して強硬派であった藤原宇合の子である藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)は、国力回復のため朝鮮に対して柔軟な対応をとる橘諸兄政権に対して異を唱えることになる。

画像 : 藤原広嗣『前賢故実』より public domain

これをきっかけに藤原広嗣は中央の役人から左遷され、九州にあった地方機関である大宰府の役人にされてしまう。朝廷に意見書を出し、橘諸兄の側近を排除するように求めたものの聞き入れられなかった。

こうして藤原広嗣は大宰府で挙兵し、反乱を起こすことになった。

壬申の乱から約70年ぶりの内乱ということで、朝廷内は混乱をきたしたが、藤原広嗣の起こした反乱はすぐに抑えられ鎮静化する。
この反乱のさなか、朝廷では驚くべき事態が起こっていた。
突然天皇が都を離れ、関東(平城京の東関より東に広がる地域)への行幸を始めたのだ。

この行幸は、藤原広嗣が反乱を起こしたことがショックで逃げ出したという説が通説であるが、歴史書の解析により、藤原広嗣が反乱を起こす以前から計画されていたという説も現在では見られるようになってきた。

国難を乗り切るため、曾祖父の天武天皇が壬申の乱の際に飛鳥の地から辿ったルートを巡ることで、追体験しようとしたのではないかと考えられている。

天然痘の蔓延により、平城京の都でも多くの死体が転がっていたと云われ、地方でも農民を多く失ったことで国力が低下し、国難の危機に直面していたことが背景とみられている。

関東行幸中に行われた遷都

彷徨五年

イメージ

聖武天皇は関東行幸中に、都そのものを移して政治を行った。

740年12月、聖武天皇は現在の京都府木津川市加茂町に入る。
この場所に都を作ることを指示し、都の造成がすぐにはじめられた。
この都は恭仁宮(くにきょう)と呼ばれた。

平城京に戻らず造営中の恭仁京に留まり、政治を行っていた聖武天皇は、翌741年の3月に平城京から官職者を呼び寄せた。
政治を円滑に行うため、首都機能を未完の恭仁京に移したのだ。

画像 : 第1次平城宮大極殿(復元) 恭仁京大極殿は第1次平城宮の移築とされる。 wiki c Tamago Moffle

平城京の太極殿を移築させることで宮殿作りを進めていたが、なぜか並行して紫香楽(現在の滋賀県甲賀市信楽エリア)に離宮を作る指示も出した。
さらに紫香楽離宮に大仏を作る命令もこの時期に出しており、仏教に傾倒する前兆が出始めていた。

造営が進んでいた恭仁京であったが、2年後の743年に聖武天皇は造営中止の指示を出す。
紫香楽宮の造営に注力するためであった。
聖武天皇は744年1月、天武天皇時代から副都として造営されていた難波宮へ移動する。
2月には政治機能も全て難波宮に移され、恭仁京は首都としての役割を終えることになった。

難波宮に移ったものの、今度はすぐに離宮として造営させていた紫香楽宮(しがらきのみや)に移動した。
恭仁京時代に指示していた大仏の造立工事が円滑に促進するよう、政治ではなく造仏を優先するようになったのだ。
政治を止めるわけにいかないことから、橘諸兄など公卿も紫香楽宮に移動した。こうして必然的に首都機能は難波宮から紫香楽宮に移ってしまったのである。

一方で、この度重なる遷都に不満を貯める人も少なからずいた。
紫香楽宮付近では、これまでの度重なる遷都に不満を持った者たちが放火し、山火事を起こしていた。

聖武天皇は、この不審火は人為的なものとしてではなく、神仏が怒っているという捉え方をした。
当時は山火事や天災などは、天皇の不徳が原因だと考えられていた時代であったことから、天皇は大赦と租税免除を行おうとする。
しかしタイミング悪く、その指示を出した当日に、美濃を震源とする大地震が発生する。
その余震もしばらくの間、紫香楽宮を襲ったことで、自分に対しての神仏からの戒めだと考えた聖武天皇は、紫香楽に都を作ろうとしたことが間違いだったと考えた。

これにより、745年に聖武天皇は5年ぶりに平城京に戻り、平城京に首都を戻したのだった。

聖武天皇は、なぜ遷都を繰り返した?

イメージ

聖武天皇の彷徨五年について、関東行幸の工程をたどってみた。

聖武天皇の関東行幸は、藤原広嗣の乱から逃げ出したかったのか、それとも天然痘の蔓延による国の再起の為に始めたものなのかは、今のところはっきりと結論付けられてはいない。

だが、行幸中に思い付きのように都を移したり大仏を作ろうとしたのは、病のない平和な世界を築こうとしたのではないのだろうかと思われる。

即位してから政治や国が乱れたことで、聖武天皇は仏教に傾倒していく。
その中で、悩み抜いた結果が彷徨五年だったのではないだろうか。

参考 : いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編 東洋経済新報社

 

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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