奈良時代

怨霊となった藤原広嗣を祀る 「二つの鏡神社」

怨霊となった藤原広嗣を祀る

画像 : 藤原広嗣『前賢故実』より public domain

藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)は、大宰府にて乱を起こした後、740年10月23日に備前松浦の地で捕獲され、同年11月1日に処刑された。

藤原広嗣が大宰府で挙兵した要因は、通説では橘諸兄(たちばなもろえ)政権に対する不満に対して、謀反扱いされたことによるものである。
しかし、藤原広嗣自体は伺い立てを行ったものを、橘諸兄たちによって謀反に仕立て上げられ、無実の罪を着せられた説もある。

いずれにせよ、左遷された九州の地で無念の死を遂げたことには違いなく、都などで「藤原広嗣の怨霊が出る」という噂が広がり始めた。

朝廷では力をつけてきた藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の長男、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が、橘諸兄を凌ぐようになる。
官僚の人事を司る式部省の長官である式部卿となったことで、人事を刷新していくことにより、橘諸兄が持っていた権力の削ぎ落しにかかる。

その一環として、政権ブレインの1人として政治介入していた僧侶・玄昉(げんぼう)が、九州の大宰府にある筑紫観世音寺に左遷されることとなる。
僧正(そうじょう)の役職をはく奪、報酬として与えられていた土地も没収され、奇しくも藤原広嗣が拠点としていた九州大宰府への左遷であった。

そんな玄昉だが、左遷されたわずか1年後に亡くなってしまう。

藤原広嗣ゆかりの地に異動して間もない死であったことから、藤原広嗣の怨霊に祟り殺されたのではという噂が広がっていったのである。

※詳しくはこちら
聖武天皇が恐怖した藤原広嗣の怨霊伝説 ~「憎き僧侶・玄昉を空中で八つ裂きに」
https://kusanomido.com/study/history/japan/nara/80396/

藤原広嗣の霊を鎮めるために取られた対応

この噂は、九州だけでなく都でも話題とり、聖武天皇(しょうむてんのう)の耳にも入ることとなる。
聖武天皇は藤原広嗣を左遷させた張本人であり、自身にもその祟りが降りかからないか恐怖の日々を過ごすことになるのである。

749年、阿倍内親王(あべないしんのう)が即位して孝謙天皇(こうけんてんのう)となると、吉備真備は従四位上に昇進する。
しかし、式部卿であった藤原仲麻呂も参議から大納言に昇進。

これにより、吉備真備は位階相当の役職から外され、低い階級の地方国司へと左遷される。

画像:吉備真備像 wiki c Bakkai

吉備真備は750年に、藤原広嗣が軍営を行った筑前の国の国守として左遷されたのち、翌年には藤原広嗣が捕らえられ処刑された肥前国の国守とされる。

この際、吉備真備は聖武太上天皇より、藤原広嗣の怨霊を鎮めるための神社創建の指示を受けた。
それにより創建されたのが、現在の佐賀県唐津市にある鏡神社二ノ宮である。

こうして、藤原広嗣は神として祀られ、九州での怨霊の噂は消えていくこととなった。

一方、九州で神社が作られたからといって、都での怨霊の噂は消えることはなく「都で怨霊が暴れるのでは?」と噂は絶えなかった。
そこで、玄昉の弟子である報恩(ほうおん)は、鏡神社より神となった藤原広嗣の分霊を奈良の清水寺に迎え、奈良にも鏡神社を創建する。

こうして、出生後である平城京と、終焉の地である肥前の地に鏡神社が創建され、祀られたのである。

鏡神社:佐賀県唐津市

怨霊となった藤原広嗣を祀る

画像:鏡神社二ノ宮 wiki c Degueulasse

吉備真備は、聖武天皇からの指示を受けた後、当時肥前松浦国の総社であった鏡神社に、2柱目の神として藤原広嗣を祀る二ノ宮を創建した。
元々鏡神社は、第14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の后である神功皇后が創建した神社であった。

仲哀天皇の生前時、三韓を征伐する神託を受けていたものの、仲哀天皇はそれに反対。
三韓よりも先に、背いた熊襲(くまそ)征伐を行う。
しかし、その戦いの中、命を落としてしまう。

神功皇后は仲哀天皇の死後、仲哀天皇に代わり政治を行った。
神託を受けていた三韓征伐を行うため、神功皇后も自ら新羅に出陣する。
朝鮮に渡る前に、肥前松浦にある鏡山で戦勝祈願を行ったのだが、神功皇后が旅立った後、その場所に夜な夜な光が現れるようになったのである。

新羅から凱旋した神功皇后はこの話を聞くと「先祖の神が護ってくれた」と喜び、この地を自分の生霊が今後も守るとして神社を創建する。
それが鏡神社の由縁となっている。

そのような天皇家ゆかりの神社に、藤原広嗣は2柱目の神として祀られたのである。

南都鏡神社:奈良市高畑福井町

怨霊となった藤原広嗣を祀る

画像:南都鏡神社 wiki c Degueulasse

玄昉の死後、平城京に住む人々の中にも「玄昉が藤原広嗣の怨霊に祟り殺された」という噂が広がっていた。

前述したように、玄昉の弟子であった報恩は、736年に玄昉によって創建された清水寺に、藤原広嗣を祀った肥前国松浦の鏡神社より、広嗣の分霊を迎えいれ、鏡神社を勧請した。

806年、鏡神社は平城京にあった藤原広嗣の屋敷跡に移設され、南都鏡神社として創建される。
この地は、光明皇后が聖武天皇の病気平癒を祈るために創建した、新薬師寺の隣であった。

新薬師寺を護る神社として移設されたことで、藤原広嗣は自身の邸宅跡で祀られるようになったのである。

南都鏡神社の本殿は、代々春日大社の社殿を下賜(かし)されている。
現在の社殿は1746年の式年造替(しきねんぞうたい)の際に、春日大社第三殿で使われていた本殿が移されたものとなっている。

春日大社第三殿のご祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)で、藤原氏・中臣氏の祖先神とされている神である。

つまり、自身の祖先神が祀られていた社殿を譲り受け、そこで祀られていることからも、藤原鎌足や藤原不比等以上に子孫からも大切に祀られているのである。

参考 : 鏡神社南都鏡神社

関連記事 :
藤原広嗣の乱 「なぜ藤原不比等の孫は内乱を起こしたのか? 」

 

草の実堂編集部

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編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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