飛鳥時代以降、平城京の内外問わず多くの寺院が建立された。
当時の仏教は、庶民が各々信仰し、極楽浄土を目指すものではなく、僧に悟りを開いてもらい仏になってもらうことで、国や一族を護るというものであった。
そのため、国が管理し運営した官寺や、豪族・貴族が一族繁栄のために創建した氏寺が多くあった。
現代に残る古刹の多くは、聖徳太子や舒明天皇、天智天皇、天武天皇といった歴代天皇や、蘇我氏、藤原氏などの豪族・貴族が開基となって建立されたものである。
奈良時代に入ると、聖武天皇は「鎮護国家思想」を基に政治を行った。この背景には、藤原氏の深い仏教信仰があったとされる。
今回は、藤原氏の仏教信仰に影響された、光明皇后や孝謙天皇による寺院建立について解説する。
聖武天皇が仏教を深く信仰するに至った経緯
藤原氏の起源は、天智天皇と共に大化の改新を推進した中臣鎌足(なかとみの かまたり)に始まる。
中臣氏は本来、神祇を司る一族であったが、鎌足は内臣としてその役割から離れており、仏教を信仰するようになった。
653年、鎌足の長男である中臣真人(なかとみのまひと)は出家して「定恵(じょうえ)」と名乗り、遣唐使と共に唐に渡って留学僧となった。定恵は12年後に帰国し、多武峯寺を建立するが、その年に亡くなってしまう。
その後も藤原氏は仏教信仰を続け、次男の藤原不比等(ふひと)は、藤原氏の氏寺である興福寺の開基として知られる。
不比等は、藤原氏の権力拡大のために自らの娘・宮子を皇室に嫁がせ、天皇家との結びつきを強化した。
その中で、仏教への信仰心も受け継がれていき、宮子の子である聖武天皇は仏教を深く信仰し、「鎮護国家思想」のもと政治を行うようになるのである。
夫婦で仏教を信仰した聖武天皇
藤原氏の血をひく首皇子(おびとのみこ ※聖武天皇)は、同じ年に生まれた藤原不比等の娘・光明子(こうみょうし)と、幼い頃よりともに過ごしていた。
光明子は、聖武天皇の母・宮子の妹なので、聖武天皇の叔母でもある。
光明子は、聖武天皇が即位したのちに正式に皇后となり、天皇・皇后ともに仏教の信仰心は強いものがあった。
聖武天皇は、全国の律令国ごとに国分寺、国分尼寺を建立するように指示したほか、東大寺に大仏(盧舎那仏)を造仏した。
寺院への塔の建立や写経の設置など、仏教による国の太平を願い、多くの仏教関連事業を行った天皇であった。
光明皇后も、仏教の影響から、庶民の救済活動や寺院建立を発願するなど、多くの活動を行った。
聖武天皇の母、大夫人宮子の病気治療に当たった僧の玄昉(げんぼう)から、仏教についても学んでいたとされる。
二人の娘である阿部内親王(あべないしんのう|後の孝謙天皇)は、仏教への信仰心は特に篤かった。
聖武天皇の発願で造仏した東大寺大仏の開眼供養を盛大に執り行っただけでなく、寺院建立も行った。
上皇となった後に重祚(ちょうそ)し、称徳天皇として再び皇位についた際には、僧の道鏡を側近として重用する。
その挙句、天皇家でない道鏡を皇位継承者にしようとするほど、仏教に傾倒していた。
このように、聖武天皇と光明皇后、そして孝謙天皇に至るまで、仏教への深い信仰を持ち続けたのである。
光明皇后発願で創建された寺院
光明皇后は、1000人もの庶民に沐浴の施しを行ったという「千人風呂伝説」でも知られている。
千人風呂伝説の概要は以下である。
光明子は仏からの啓示を受け、千人の身体を清めるための浴室を建設し、その垢を摺り落とすことを誓願した。
光明子は999人を洗い流したが、1000人目に現れたのは全身が血膿まみれの皮膚病の患者だった。しかし、彼女は一切恐れることなく患者を清め、さらにその求めに応じて口で膿まで吸い取った。すると、患者は金色の阿閦仏(あしゅくぶつ)となり、姿を消した。
光明皇后は、社会福祉に対して積極的に活動を行っており、その中で藤原氏の氏寺である興福寺に「悲田院(ひでんいん)」「施薬院(せやくいん)」を設置したとされる。
庶民に対して仏の加護を得られるように努めたことから、「千人風呂」のような伝説が生まれたと考えられる。
そんな光明皇后が発願し、創建したと伝わる寺院は以下である。
・海龍王寺
・法華寺
・新薬師寺
光明皇后は、藤原不比等の死後、その邸宅を相続し、そこは「皇后宮」として使用された。
この皇后宮の北東の隅に建立されたのが海龍王寺であり、その位置から「隅寺(すみでら)」とも呼ばれている。
また、同じく皇后宮内に建設されたのが法華寺である。
法華寺は全国の総国分尼寺に位置付けられた寺院であり、745年に、光明皇后の発願により、皇后宮を宮寺としたのが始まりである。
平安時代末期には戦火による被害を受けたが、鎌倉時代に復興され、さらに室町時代の大地震で再び損傷を受けたものの、豊臣秀頼と淀殿の親子により南門や鐘楼が復興され、現在に至る。
法華寺の次に創建されたのが、新薬師寺である。
新薬師寺は747年に、聖武天皇の病気平癒を願って創建された寺院である。
新薬師寺の「新」とは、「霊験あらたかな」といった意味で付けられており、創建時は七堂伽藍が整備された大寺院だったとされている。
本堂は奈良時代から今に残り、国宝に指定されている。
孝謙天皇発願で創建された寺院
752年、孝謙天皇は東大寺の盧舎那仏の開眼供養を盛大に執り行い、1万人もの僧侶を参列させた。
自身も754年に、中国の唐から来日した僧の鑑真から東大寺で受戒している。
その後、764年の藤原仲麻呂の乱に際して、孝謙天皇は戦勝祈願のため、西大寺の建立を発願した。
乱が鎮まると彼女は称徳天皇として重祚し、世の乱れを仏の力で鎮めるため、陀羅尼経を収めた百万基の小塔「百万塔陀羅尼」を作らせ、これらを法隆寺をはじめとする平城京周辺の奈良の寺院に納めたとされる。
西大寺は南都七大寺の一つとして数えられ、奈良時代には壮大な伽藍を誇る寺院であったが、平安時代に一度衰退した。
しかし、鎌倉時代に復興し、室町時代の焼き討ちによって再び大きな被害を受けたものの、江戸時代には幕府から300石の寺領が認められ、再建された。
現在の伽藍は、その時代に再建されたものである。
聖武天皇、光明皇后、孝謙天皇が仏教を信仰し、平和と民衆の救済を願って建立した寺院は、当時の政治と宗教の強い結びつきを象徴している。
これらの寺院は、現在も貴重な歴史的遺産として残り、その精神は今後も語り継がれていくだろう。
参考 :
・ビジュアル百科写真と図解でわかる!天皇〈125代〉の歴史 西東社
・日本の古寺100選 宝島社
・訪ねてみたくなる関西の寺社 ぴあ株式会社
文 / 草の実堂編集部
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