天皇家の皇祖神とされる天照大神
天照大神(あまてらすおおみかみ)が、天皇家の皇祖神として伊勢神宮内宮に祀られているのは周知の通りだ。
『古事記』『日本書紀』には、多少の違いこそあるが、天照大神の誕生を、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が伊邪那美命(いざなみのみこと)の居る黄泉の国から生還し、黄泉の穢れを洗い流した際、左目を洗ったときに化生したとしている。
このとき右目から生まれた月読命(つくよみのみこと)、鼻から生まれた建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)とともに、三貴子(みはしらのうずのみこ)と呼ばれる。
つまり神話では、天照大神は伊邪那岐命の娘で、月読命・建速須佐之男命はその弟ということになる。但し、天照大神・月読命ともに、記紀には性別は明確に記されていない。
天照大神を女性ではなく、男性神とする説もある。
だが、本稿では一般的にいわれているように、女性神ということで話をすすめさせていただく。
そんな天照大神と皇室の結び付きだが、記紀の記述によると、天照大神は孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)に宝鏡を授け、子々孫々倭国を治めるように神勅を下した。そして、降臨した邇邇芸命の子孫が初代天皇とされる神武天皇となったという。
これが、天照大神が皇祖神とされる由縁である。
天照大神を宮中から出した崇神天皇
天照大神と天皇家の関係が語られるのは、第10代崇神(すじん)天皇の時代で、『日本書紀』にことさら詳しく記されている。
それによると、天照大神はもともと天皇の大殿内に祀られていた。
ところが「神の勢い激しく、同床共殿に堪え難い」ということで宮中より出し、大和神社(おおやまとじんじゃ)の主祭神・日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)とともに、他の場所に祀ることになったという。
天照大神の遷座を託されたのは、皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめりみこと)で、まずは笠縫邑の大神神社摂社・檜原神社に祀られた。
そして、次代の垂仁天皇の時に倭姫命(やまとひめのみこと)が、その奉祭にふさわしい地を求めて大和を出発した。
やがて伊勢国にいたり、伊勢神宮内宮に祀られたとされる。
崇神天皇といえば、実在が考えられる最初の天皇とされている。
大神神社山麓の三輪の地を本拠とし三輪王朝を創始した大王で、様々な説はあるものの、考古学的にはその治世時期は3世紀後半から4世紀前半と考えられている。
これは、弥生時代から古墳時代へ移るちょうど過渡期にあたるとされ、三輪エリアに広がる纏向遺跡の発掘調査においても、崇神天皇との関係性が注目されている。
崇神天皇は、天照大神と日本大国魂大神を他所に遷した後に、大物主神を主祭神とする大神神社を、国造り神・国家の守護神として篤く祀ったという。
現在でも、大神神社の摂社に崇神天皇を祀る天皇社があるのは、このためだ。
伊勢神宮のはじまりは飛鳥時代後期
一方、天照大神は鎮斎地を求めて、大和の宇陀・近江・美濃を経て伊勢に至り、「この神風の国は、常世の波の重波帰(しきなみよ)する国なり。傍国のうまし国なり。この国に居らむと欲ふ。」と託宣し、伊勢神宮内宮に祭祀されたが、その時期はいつ頃になるのであろうか。
伊勢神宮は、小・中・高の教科書などに「皇室の先祖を祀り、日本人全体の氏神」と記されているほど、日本人にはなじみ深い神社だ。
しかし、史実としてはその創建年代は、おそらくは大海人皇子が壬申の乱で勝利した後の、天武朝ではないかというのが有力だ。
『日本書紀』には、「天武天皇は673年に、娘の大伯皇女を初瀬に参篭させて身を清めさせ、その1年半後に伊勢へと出発させた」とあり、これが、正式な斎宮・斎王としてはほぼ最初の記録となるのだが、この1年半の期間に伊勢神宮の社殿・斎宮の施設を造営したと考えられる。
また、『続日本紀』の698(文武2)年の条に、「多気の大神宮を度会郡に遷す」との記述があり、この年に南伊勢宮川上流の多気から、五十鈴川沿いの現在の渡会郡に遷座した可能性もある。
いずれにせよ、伊勢神宮の創建は、早くても飛鳥時代後期と考えて差し支えないようだ。
天皇家の天照大神祭祀は、奈良時代から
天照大神を祀る伊勢神宮内宮の創建は、飛鳥時代後期の天武天皇・持統天皇・文武天皇のいずれかの時代と述べた。
これは、飛鳥京・藤原京に宮都が置かれた時代であり、大化の改新事業の集大成である中央集権体制を急速に進めた時期でもある。
この時代に、天照大神を天皇家の皇祖神としたことにこそ意味があった。意味があったという言い方をするのは、何かしらの意図があったということである。
ここからは驚くべき事実を述べるが、確実な記録を見る限り、天皇家が天照大神を祀ったのは、奈良時代になってからと考えられるのだ。
それは、宮廷内に関係の深い神々の祭りを扱った『延喜式』の祝詞に、天照大神の名前がほとんど出てこないためである。出てきても他の大勢の神々の後に僅かにその名が見える程度だ。
つまり、飛鳥時代後期に創建された伊勢神宮の主祭神は、天照大神以外の神だったということになる。
その後、奈良時代に入り、倭国が日本となり、律令国家が成立して神社体系が整備される中で、天照大神が皇祖神とされ、伊勢神宮内宮の主祭神となったのだ。
「たかみむすひ」に取って代わった天照大神
では、それまで天皇家が皇祖神として祀っていた神は何だったのだろうか。そして、なぜ天照大神をその神から皇祖神に置き換えたのであろうか。
天皇家は、崇神天皇を初代と考えても、その王朝が伊勢神宮を実際に創建した天武天皇まで脈々と続いていたわけではない。
ここでは細かい論証は避けるが、大まかにいえば天皇家の系統は、第10代崇神天皇~第14代仲哀天皇の三輪王朝、第15代応神天皇~第25代武烈天皇の河内王朝、そして第16代継体天皇からの王朝に分かれることになる。
天武天皇は、もちろん継体天皇の王朝の流れである。
しかし彼は、大王家の血脈を示す際、崇神天皇まで遡り、さらに神武天皇をはじめとする架空の9人の天皇を創作し、神武天皇を神と結びつけたとする説がある。
これを天武天皇の子孫たちが記紀で記したため、「天皇=神」という概念が天武天皇の時代に明確化されたと考えられる。
また、天照大神が皇祖神として崇められたのは、「太陽神」ということが大きかったはずだ。
10年ほど前に「太陽の道」「聖なるライン」という言葉が有名になったのを御存じだろうか。
これは、畿内だけでみても大阪の大鳥神社、纏向の箸墓古墳、元伊勢と称される三輪山麓の檜原神社、観音信仰で有名な長谷寺をはじめ、大和盆地にある著名な遺跡・寺社などが北緯34度32分の線上に、ほぼ一直線に並ぶ現象のことを指す。
このライン上に、東から太陽が昇り、西へ沈むのである。
そして、こうした著名な寺社だけでなく、この「太陽の道」に関りがあるとみられる「あまてらす」の名を冠する神社が数多くあり、初代天皇と考えられる崇神天皇の本拠地・三輪の近くにも、桜井市の他田坐天照御魂神社(おさだにますあまてるみたまじんじゃ)、田原本町の鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)が鎮座する。
このように天皇家=大王家では、古くから太陽神崇敬および祭祀が行われており、そうした「あまてらす」の神々に特別な敬称を冠したのが、天照大神ではないかと考えられるのだ。
そして、もともと天皇家が皇祖神としていた神は、神話学者の松前健氏によれば「たかみむすひ」であるという。
この神は、一般に農耕・生産にまつわる神で、むすひの「ひ」=「日」、すなわち太陽神の称とし、元は太陽神であったのが生産の神へと変貌したとされる。
たかみむすひは、『古事記』では天照御神とともに天孫降臨の司令神として、天皇家の創設に重要な役割を与えられている。
おそらく記紀の編纂者は、元祖・天皇家の皇祖神として気を使ったのであろう。
それでは本稿における結論を述べよう。
現在、天皇家の皇祖神とされる天照大神は、奈良時代に記紀が編纂された時にその地位に就いた神だった。
その背景としては、日本が倭国から脱し、律令国家・日本へ飛躍する際、天皇家への権力集中と維持に天孫思想が必要だったからである。
そして、その後の日本の歴史において頻繁に使用されることになる「神国・日本」というキャッチフレーズは、この時に完成したのである。
※参考文献
國學院大學 古典文化学事業 神名データベース
古川順弘著 神社に秘められた日本史の謎 宝島社 2024.9
文/高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
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