本能寺の変における「人間五十年」
ところで、ここまで読まれた方の中には、
「信長が人間五十年と謡ったのは、本能寺で死ぬ時のことなのでは?」
と思った方がおられるかと思う。
確かにドラマや映画の中で、「信長の死ぬシーン=敦盛の舞」という印象は強い。その点についても論証しておきたい。
先にも述べた太田牛一による「信長公記」の記述である。
「信長公記」の記述
これを見る限り、「本能寺の変」において「信長が『人間五十年』と謡い舞った」という事実は無い。
本能寺で死に直面した信長が「人間五十年」と謡い舞う描写は、いったいどのようにして成立したものなのだろうか。
「信長記」の記述
小瀬甫庵による「信長記」(元和8年(1622年)刊)は、太田牛一の「信長公記」を、甫庵が物語風に潤色したものであり、儒学的理念が強調されている作品だ。実は江戸時代には、こちらの方が太田牛一の「信長公記」よりも広く一般に読まれていた。
だが、この小瀬甫庵による「信長記」にも、「本能寺の変」において信長が「人間五十年」と謡い舞う描写はない。
「三河物語」の記述
次に、元和8年(1622年)成立の、旗本大久保忠教の自伝である「三河物語」を参照する。
大久保忠教は小瀬甫庵「信長記」を「三分の一しか真実が書かれていない」と批判しているが、
その大久保忠教の「三河物語」にも、「本能寺の変」において信長が「人間五十年」と謡い舞う描写はない。
「織田軍記」の記述
続いて、貞享(1684年2月21日〜1688年9月30日)の頃の人物である、遠山信春による「織田軍記(総見記)」の記述。
ここにもやはり、「本能寺の変」において信長が「人間五十年」と謡い舞う描写はない。
いったい本能寺に「人間五十年」を持ち込んだのは誰なのか?
さて、ここで吉川英治「新書太閤記」を見てみよう。
彼方此方、踏みやぶる戸障子の物音をも衝きぬいて、女たちの泣きさけぶ声、呼び交う悲鳴が、一層、ここの揺れる甍の下を凄愴なものにしていた。部屋部屋を逃げまどい、廊を奔り欄を越えなどする彼女らの狂わしい裳や袂は、その暗澹を切って飛ぶ白い火、紅の火、紫の火にも見える。
そしてそこらの蔀にも柱にも欄にも、矢や弾丸の来ない所はない。すでに信長が広縁の一角まで出て射戦しているので、その姿に集注してくるものが奥へ外れて来るらしかった。
「匹夫が」
と、一矢を放ち、
「推参な」
と、眦を切っては一矢を射る。――その信長の戦いを見ては、怖ろしさに、自分を見失っている女たちですら、ここを落ちて行くにも行けない気がして、声かぎりに哭くのであった。
――人間五十年、化転ノウチヲ較ブレバ、夢幻ノ如クナリ。とは、彼が好きな小唄舞の一節であり、若年に持った彼の生命観でもある。彼は決して、今朝の寝ざめを、天変地異とは思っていない。人間同士のなかにはあり得る出来事であり、それが今や、自分の前に来ているという観念でしかない。
とはいえ、彼は、はやくもその観念の眼をふさいで、
(もうだめだ。最期だ)
とはしなかった。むしろここで死んでなろうかという猛気に燃ゆる戦いぶりであった。
吉川英治「新書太閤記」はもともと、昭和14年1月から昭和20年8月まで「読売新聞」に連載されていたが、終戦によって休止。その後、単行本出版などに際して加筆されるが、この「本能寺の変」の部分は「読売新聞」に連載時に、書かれたものである。
謡い舞ってはいないものの、本能寺に「人間五十年」が持ち込まれた例であることは間違いない。(吉川英治以前に「人間五十年」を本能寺に持ち込んだ事例は、今回の調査では発見できていない。)
なお、司馬遼太郎「国取り物語」(1963年-1966年)の本能寺描写にも、文言としては「人間五十年」が持ち込まれてはいるが、吉川英治「新書太閤記」と同じく、信長は謡い舞ってはいない。
山岡荘八「織田信長」(1955年-1960年)は本能寺の前夜に、酒に酔いながら「人間五十年」と謡い舞う信長を描いているが、本能寺の変の現場には「人間五十年」は登場しない。
だが、これらの歴史小説に触発された映像作品や、これらの歴史小説を原作とした映像作品が、映像化の段階で、「信長を本能寺において謡い舞わせる」
に至ったことは想像に難くない。どの映像作品がその嚆矢となったのかについては、今後も調査を続けていきたい。
「本能寺の変」の際に信長が「人間五十年」と謡い舞った事実は確認できなかったものの、桶狭間の戦いに臨む信長が「人間五十年」と謡ったことは、かなり信憑性が高いと結論づけられる。
なお、この記事を執筆するに当たって、「軍記語り物研究会」のシンポジウムには大いに触発された。鈴木彰先生並びに、関係の皆様に深く感謝したい。
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