はじめに
豊臣秀次と言えば、人質として転々とした生活を送っていたことや小牧・長久手の戦いで惨敗したときの武将として知られている。
特に、小牧・長久手の戦いについては池田恒興や森長可など優秀な武将を失ったことで知られ、多くの人が豊臣秀次に対してあまり良い印象を持たない要因として挙げられる。
一方で、内政面では評価が高いことでも知られている。その例として滋賀県の近江八幡市が挙げられる。今の近江八幡市は豊臣秀次が作ったと言われ、現在も近江商人の町として知られている。
ここでは、最初に豊臣秀次の生い立ちから豊臣秀吉の養子となって豊臣家の2代目の関白になるまでの過程について述べる。それから現在の近江八幡市の町づくりと関白になってからの豊臣秀次について取り上げたい。
最後に、石田三成らとの対立から自害するまでの過程について取り上げる。
豊臣秀次が八幡山城主になるまで
豊臣秀次は豊臣秀吉の姉・ともと尾張国の農民・木下弥助(後の三好信房)に生まれた。
木下弥助は秀吉が織田氏の家臣の中で台頭し木下の名字を与えられた時代に、秀吉の家臣に加わったという記録が残っている。
豊臣秀次は人質として転々としていたことで知られている。最初に、姉川の戦いで対立していた浅井氏の家臣・宮部義継の養子という形で人質として送り込まれている。宮部義継は浅井氏の家臣であったが、秀吉の調略によって織田信長に味方することが決まると、秀吉の家臣となった。宮部義継が秀吉の家臣となったとき、秀次は人質としての役割を終えて、字を宮部から羽柴(当時)に戻している。
浅井氏が滅んでいた頃、四国統一を目指していた長宗我部氏が台頭していた。当時の長宗我部氏は正妻が明智光秀の家臣の妹であったと言われている。秀吉は光秀に対抗するために、秀次を阿波の三好康長の養子という形で人質として送り込んだ。当時、秀次は三好信吉と名乗っていた。この時、秀次の父・木下弥助も三好信房に名前を変えている。
1582年に織田信長が本能寺の変で倒れると、豊臣秀次は山崎の戦いに出陣している。これが秀次の初陣であると言われている。
その後、1583年の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)や1584年の小牧・長久手の戦いに出陣するなど秀吉の縁者として重用されていたことが分かる記録が残っている。
豊臣秀次と言えば、小牧・長久手の戦いで負けたときの武将で知られている。池田恒興や森長可など優秀な家臣を失い、戦いについては無能であるという印象を多くの人が持つきっかけにもなっている。
小牧・長久手の戦いは野戦が得意と言われている徳川家康が奇襲を仕掛けたことで秀吉の軍が負けたことで知られ、当時の記録によれば秀次を逃すために池田恒興や森長可らが討ち死にしたということである。この戦いで秀次は叱責を受けるシーンが大河ドラマなどで放送され、多くの人が無能な武将という印象を受けているが、小牧・長久手の戦い以降、負け戦はなく、武功を挙げているという記録が残っている。主な戦いでは、紀州の雑賀攻めや四国攻めでも副将を務めたことで知られている。
これらの戦での活躍が評価され、秀次は苗字を羽柴に戻したうえで、近江国の八幡山城の城主となった。当時の八幡山城の石高は43万石であると言われている。秀次は内政面に力を入れ、本能寺の変で焼け落ちた安土から商人を呼び寄せて街を活性化させたと言われている。
※八幡地区周辺の空中写真 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省
今の近江八幡市の町の形は碁盤の目状になっているが、これは秀次が八幡山城の城主になってからできた町の形であることで知られている。町づくりについては今でも地元の人から高い評価を得ている。
近江八幡市公式HP → こちら
関白としての豊臣秀次
1586年に豊臣の名字を与えられ、名前を豊臣秀次と変えている。豊臣秀次となってから秀吉の九州征伐や小田原征伐に加わっている。
これらの戦いで評価され、かつて織田信雄の領地であった尾張国や伊勢国を加え、100万石を超える領地を持つ大名になった。同時に、豊臣秀吉には子供がいなかったため、秀吉の後継者として注目されるようになった。
1591年、秀吉の実子鶴松が3歳で死去すると、秀次は関白になった。しかし、秀吉は全権を秀次に譲ったわけでなく、秀吉が朝鮮出兵に専念している間、秀次は内政に力を入れていたと言われている。
その後、秀吉と側室の淀殿との間に子が生まれると、秀吉は生まれた子どもに後を継がせたいという思いが強くなったと言われ、秀次を次第に排除するようになる。石田三成らから謀反の疑いがかけられ、高野山に行くように促された。
高野山に行ったとき出家しているという記録が残っているが、高野山に移ってから切腹するように命じられ、生涯を閉じたと言われている。
その後、秀次の側室や子供など多くの人が処刑されてしまったという。
おわりに
今回は豊臣秀次について取り上げた。秀次と言えば、幼いころに人質として転々としていたこと、小牧・長久手の戦いで負けた武将、秀吉に排除された人として知られているが、意外な一面として現在の近江八幡市の町づくりをしたことを取り上げた。秀次は近江八幡市だけでなく、今の岐阜県や三重県の領主にもなっていることから、これらの町について秀次の記録が残っていれば調べたいと思う。
この記事へのコメントはありません。