城ブームの火付け役といってもいい城が兵庫県朝来市にある。
「天空の城」「日本のマチュピチュ」とも呼ばれる『竹田城』だ。
室町時代に築城され、江戸幕府により廃城となったあともその石垣は残り、現在では入城規制が行われるほどの人気である。その魅力を改めて見てみたい。
400年の時を経て
※本丸から望んだ南千畳
竹田城は典型的な戦国時代の山城である。
戦国時代に築かれた城の数は全国でも数万といわれるが、明治の廃城令や空襲などによりその多くが姿を消した。また、初期の城は石垣すらないものも多く、山城の場合は「史跡」というだけで当時を偲ばせるものが残っていない場合もある。
そのなかで、竹田城はほぼ自然なままの状態で「見事な石垣が良好な状態で残っている山城」、というところがポイントだろう。本丸と3つの曲輪のすべてが石垣で囲われており、画像のように本丸から南千畳曲輪を見てもいかに険しい地形に築かれたかがわかる。
播磨平定の拠点
※城跡から雲海を眺望
築城についての記録がないものの、1430年代には当時、播磨国であったこの地に「安井ノ城」が築かれていることはわかっている。
この「安井ノ城」こそ「竹田城」を意味する。
室町幕府6代将軍・足利義教の治世のことだ。もっとも、その史料は江戸時代の末期に播磨の伝承をまとめたものであり、これも信憑性が高いとはいえない。
ただ、この時代に但馬守護であり、竹田城を築いた山名氏と、播磨守護である赤松氏との間で軍事的な小競り合いが幾度か起こり、その後も播磨と但馬の国境防衛の拠点として機能している。ちなみに、播磨も但馬も現在の兵庫県北部にあたり、同地におけるこの城の重要性は高かった。
安土桃山時代になり、織田信長配下の羽柴秀吉による中国攻めが行われると竹田城も落城する。直後は秀吉の弟・秀長の家臣である桑山重晴を城主に据えたが、まもなくして中国攻めの折に豊臣軍に降伏した赤松広秀が城主となった。
築城当時から土塁だけで守られていた竹田城だったが、赤松広秀により現在まで残る総石垣造の城に大規模改修されたのである。
虎臥城
※石垣の様子
近年、竹田城が爆発的な人気となったのは、秋の良く晴れた朝に円山川から立ち上る濃い霧が周囲を取り囲むため、「雲海に浮かぶ城」として紹介されたことが切っ掛けである。
しかし、標高353mの古城山の山頂に築かれた竹田城跡は、麓から見るとまた異なる呼び名を持つようになった。古城山全体がまるで虎が伏せているかのように見えるため、「虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)」とも呼ばれている。
その竹田城だが、先にも書いたように城の外周がすべて石垣で覆われている。
戦国時代の城というのは、平時には麓で生活を送り、有事には自然の地形を生かした軍事拠点としての「山城」にこもるという使い分けがされていた。やがて、戦国大名の強大化によりその規模も拡大する。
もっとも、天守閣というものが築かれるのは、織田信長が安土桃山時代に築城した安土城が始めてであり、竹田城は高層の天守閣こそないものの関ヶ原前後に見られる石垣を持つ平城の特徴も併せ持っているために珍しいのだ。
竹田城 構造
※竹田城見取図
さて、いよいよ現在の竹田城について見てみよう。
最初で最後の大改修が行われたのは、安土城の築城とほぼ時期を同じくする。そのため、安土山の山頂にある安土城と同じように、竹田城も古城山の山頂という険しい場所にありながら総石垣の城に生まれ変わった。
中央の最高地点に本丸を配し、その隣に天守台がある。さらに本丸と天守台から南に「南千畳曲輪」、北に「北千畳曲輪」、西に「花屋敷曲輪」を持ち、東が天守の正面となる。それらを麓の城下から見上げると、さぞ圧倒されたことだろう。
さらに、本丸との差を明確にするため、本丸の標高が351mに対し、3つの曲輪はすべて331mの高さに統一されている。これは非常に高度な計算と技術が用いられたと思われ、豊臣時代の築城技術に共通する石積みの技法も見られる。
観光地として
※竹田城の天守台下の石垣
2013年の報道で、竹田城跡を訪れる観光客の増加に伴い、一部の石垣が崩落する危険性や土砂流出の懸念が指摘された。その後、朝来市では地面保護のためにマットを敷き、立ち入り可能なエリアを制限することになる。しかし、同時に修復も行われたため、現在では「観光ルート」に沿って見学するという形で入城が可能となった。
来城者数は、ピークの2014年が55万人以上だったのに対し、2015年は約40万人と下回った。メディアの露出が減ったためという理由もあるだろうが、「歴史的価値」を考えると一度は足を運んでいただきたい。
なお、冬季は積雪の危険もあるため、入城規制がかかることもある。
詳細は「竹田城跡公式ホームページ」で確認してもらいたい。
最後に
メディアで騒がれていた当時は、気になりながらも調べるようなことはしなかった。
しかし、今回調べてみてこの城がいかに歴史的な価値を持っているのかがわかった。室町時代の築城様式と安土桃山時代の様式の特徴を兼ね備えた珍しい城ということである。ただ美しいだけではないからこそ、今回記事にしてみた。
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