甲州武田武士の心構えを表した言葉がある。
「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」
この武田節は、武田信玄率いる武田軍団の鉄壁の結束力を謳ったものとして伝えられてきた。しかし、近年の研究により、武田家臣団が決して一枚岩ではないということが分かってきている。
しかも、若くして当主となった武田信玄は、中々まとまらない家臣たちに悩まされていたという。「すべてが思うようにならない」と苦悩を綴ったほどである。
信玄はどのようにして家臣をまとめることができたのであろうか。
まとまらない家臣たち
[※武田信玄]
1521年(大永元年)、甲斐の守護大名、武田家の嫡男として信玄は生まれた。
当時、甲斐一国を治める武田家の領地は、小さな盆地ごとに家臣が独自の勢力を築いており、武田家への忠誠心は薄く、内紛も絶えなかったのである。そのため、父・武田信虎は自分に従わないものには容赦ない罰を与え、それが逆に家臣たちの反感を買ようになった。そこで家臣たちは、道楽三昧で御しやすいと考えた信玄を担ぎ上げたのである。
その道楽ぶりを、武田家の史料である「甲陽軍艦(こうようぐんかん)」では「一切昼夜の弁えもなく乱鳥の狂(みだれどりのくるい)」と記している。
1541年(天文10年)、家臣たちは信虎を国外に追放すると、信玄を新たな当主に祭り上げた。やがて、領土拡大のため武田軍は信濃の諏訪氏を攻め滅ぼしたが、その際に信玄が一人の女性に惚れる。だが、家臣たちはこぞってこれを諌めた。もし、信玄との間に男子が生まれたなら、自分たちが獲得した諏訪の地を奪われるかもしれないと恐れたのだ。
そのとき、一人だけ信玄の味方をした家臣がいた。
新参の山本勘助である。勘助は、逆に男子が生まれれば諏訪の旧臣は再興の望みを抱き、武田家のために働くであろう、と。
結局、この言葉により信玄は諏訪氏の娘を側室とすることができたのである。
勘助の教え
【※山本勘助】
しかし、家臣たちの身勝手な振舞いは悪化するばかりであった。
このころに信玄が詠んだ歌がある。
「頼まずよ 人の心のつれなさを 恨むるほどに 夜も更けにけり」
そんな信玄の悩みを救ったのは、またしても勘助であった。勘助は浪人として諸国を渡り歩き、諸国の大名の統治法を学んでいたのだ。その方法とは家臣たちを厳しく統制する法の制定であった。
こうして書かれたのが26ヶ条におよぶ「甲州法度(こうしゅうはっと)」である。だが、それまでの家臣たちに受け入れられるはずもなく、戦場においては大将である信玄の命令を無視して、突撃を行う有様だった。これでは戦にも勝てるわけがない。
家督を継いで8年、信玄は勘助に家臣の統率術を尋ねた。その答えは「戦を続け領土を獲得なさいませ。その土地をすべての家臣に与えれば大将を大事にするはずです」というものであった(「甲陽軍艦」より)
さらに、戦の勝ち方を尋ねると「一に計略、二に布陣、三に情報の見極め」と答え、この三つが揃えば戦に勝てるとも信玄に教えた。このときには勘助の存在は、信玄にとって大切な右腕となっていたのである。
徐々に固まる結束
この助言を得た信玄は、それから積極的に領土拡大を行うようになった。
そして、新たな土地を即座に家臣たちに分け与えたところ、徐々に主君を敬うようになってくる。そのときの家臣の言葉には「古今まれなる弓取りの大将」(「甲陽軍艦」より)とまで書かれている。さらに信玄は侵攻の手を緩めず、隣国「信濃(現・長野県)」の約7割を支配するまでとなった。
その信玄の前に立ちはだかった大きな壁が、越後の軍神「上杉謙信」である。そこで、信玄は背後を固めるために、駿河の今川氏、相模の北条氏と三国同盟を結び、謙信に対抗しようとしたのだ。そして、家臣たちを神社に集め、神前で団結を誓わせた。
【※戦国時代の甲信とその周辺。武田晴信(信玄)は一時、越後に近い川中島付近までを領地としていた】
1555年(弘治元年)、遂に信玄は川中島で上杉軍と対決、互角の勝負を繰り広げる。ここでも信玄は家臣たちの忠誠心に頭を巡らせていた。
近年、この戦いに参戦した家臣に与えられた感状(戦功があった者への証明)が即日に発行されていることが分かった。普通、感状は戦後に館に戻ってから発行されるものだったが、信玄は戦場で発行しては、すぐに褒美も与えていたことも明らかになった。
こうした気遣いが家臣たちの心を掴み、いつしか上杉軍と互角に戦えるまでになっていたのだ。
分裂の危機
しかし、1561年(永禄4年)の第四次川中島の合戦では、勘助の策を上杉軍に見破られ、勘助も戦死した武田軍は窮地に追い込まれた。それを救ったのが別働隊の到着である。信玄が目にした光景は、家臣たちが命に代えてでも主君を守ろうとした姿であった。
勘助を失った信玄は、ひとり諸国の情勢を分析するようになる。
駿河の今川義元が織田信長に討たれ、動揺が見られたからだ。この機に今川を破れば京への道が開け、天下への道も見えてくる。
だが、勘助の死から6年後の永禄10年、思いもよらぬ事件が信玄に起こった。今川家の嫁を持つ嫡男の武田義信が、今川攻めを拒否したことにより、家臣たちも信玄と義信、双方に付いて争うようになった。このままでは、せっかく団結した家臣たちがまた分裂してしまう。
さらに義信が謀反を企てていることを知り、信玄は義信を幽閉して、義信派の家臣80名あまりを処刑、追放した。その後、残った家臣たちに改めて忠誠を誓わせるための血判状を書かせた。これは「血の起請文(きしょうもん)」として、今でも長野県上田市の生島足(いくしまたる)神社に残されている。
【※義信が幽閉された甲府市の東光寺】
その後、義信を自害させることで、家臣たちの争いも収まったとある。
最強軍団の完成!
1568年(永禄11年)12月、信玄はかねてからの目標であった駿河に侵攻した。家臣たちも再び結集し、瞬く間に今川氏の領土を手中に治めていった。ちょうどそのころ、将軍「足利義昭(あしかがよしあき)」より、一通の書状が届く。「天下泰平のため上洛せよ」というものである。
家臣の結束に心をくだき、わが子までをも手を掛けた信玄にとって、やっと天下が見えてきたのだ。
京を目指して西へ向かう信玄の敵は、当時、急速に勢力を伸ばしていた「織田信長・徳川家康連合軍」である。浜松城の家康を討つべく兵を進めた信玄だったが、家康は篭城戦を選び、武田軍を苦しめた。そこで、敢えて不利な三方ヶ原に徳川軍を誘い出し、守りに厚い「魚鱗の陣(ぎょりんのじん)」によって迎え撃つ。
このときの見事なばかりの動きは、家臣団の結束力の賜物であった。
【※『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館所蔵)】
戦いも一丸となった武田軍が一方的に勝利し、三方ヶ原の戦いはわずか2時間で終わったのである。
それこそ、まさに戦国最強の武田軍団が完成した瞬間でもあった。
最後に
野戦を得意とした徳川家康を完膚なきまでに負かした信玄の軍事力は、織田・徳川連合軍に脅威と認識させ、家康はこの教訓を忘れぬように『徳川家康三方ヶ原戦役画像』、通称「しかみの自画像」を描かせたといわれている。
さらに、武田家滅亡後は、積極的に武田家の旧臣たちを召抱えし、徳川家の飛躍の大きな礎となったのだ。
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