信長時代の孝高
黒田孝高(くろだよしたか)は、豊臣秀吉の軍師として官兵衛の名で知られている武将・大名です。
孝高は初めは播磨国姫路を治めていた国人領主の御着城主・小寺政職に仕えていました。
孝高は父の代から小寺氏の家老を務めていましたが、この時代の播磨は西に毛利、東に織田と有力な戦国大名の狭間に置かれ、どちら側に与するのかを決断しなくてはならない岐路に立たされました。
ここで孝高は、武田を破った織田に付くべきであると判断し、主君・政職を説いて織田信長への臣従を謀りました。
その後、信長は中国方面軍の総司令官に豊臣秀吉を置いたことから、孝高は秀吉の下で毛利との戦いのあたり、今日にも伝えられている、備中高松城に対する水攻めを行いました。
本能寺の変への対応
天正10年(1582年)6月、備中高松城の水攻めの最中、京では本能寺の変が起こりました。
これによって明智光秀に信長が討たれたことで、織田家中は緊急事態に陥りました。
しかしこの報を聞いた孝高は、秀吉に対し毛利とは和睦を行い、急ぎ京へと戻り光秀を討つべきであると進言したと伝えられています。世にいう「中国大返し」です。
この強行軍を無事に成功させた秀吉勢は、山崎の戦いで光秀勢を破り、天下取りへの道を開きました。
また、この後の清洲会議において秀吉が信長の孫にあたる三法師(後の織田秀信)を擁立したことも、一説には孝高の進言と言われています。
豊臣政権への貢献
この後、孝高は天正11年(1583年)の柴田勝家との賤ヶ岳の戦いにも従軍、続く天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、当初は大阪城の留守居役を務めましたが後に出陣、撤退戦となった二重堀砦の戦いで木村重茲らとともに殿軍を務めました。
翌天正13年(1585年)の四国征伐においては、孝高は讃岐から侵攻した宇喜多勢に軍監として従軍しました。
殊に植田城においては、その城に長宗我部元親が施した計略があることを察知して、これを力攻めせずに阿波へと迂回する策を取り、被害を未然に防いだと伝えられています。
孝高は天正14年(1586年)10月には九州征伐にも従軍しました。
豊前から上陸した孝高は翌年の3月には豊臣秀長を総大将とする日向方面の先鋒を務め、島津氏を服従させることに貢献しました。
豊前12万5000石の知行
天正15年(1587年)、九州平定後の論功行賞において、孝高は豊前国の6郡12万5000石(太閤検地後は17万石)を拝領し、居城となる中津城の築城を行いました。
この論功行賞では、佐々成政が50万石、小早川隆景が70万を与えられたことから、孝高の扱いは貢献に比してあまりに些少であるとも言われました。このことから孝高の器量を恐れた秀吉が、敢えてその石高に留めたとの巷説が伝えられることになりました。
孝高は、天正17年(1589年)には家督を長政に譲って、自らは秀吉の傍に仕えたとされています。
孝高は天正18年(1590年)の小田原征伐でも小田原城に籠城した北条氏政・氏直父子に対して降伏勧告を行う使者となり、無事これを成功させています。
尚、このときには氏直からは名刀「日光一文字」を贈られています。
以後、孝高は2度の朝鮮出兵にも渡海しましたが、このとき石田三成らとの間に軋轢を生み、勝手に帰国したとされています。
そのため秀吉の勘気を被り、蟄居を命じられたことで「如水円清」と号して出家したとされています。
関ケ原の戦い
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、5大老筆頭だった家康が台頭していきました。慶長5年(1600年)に家康が会津・上杉家討伐の軍を起こすと、長政は家康に従って東軍に加わっています。
このとき孝高は国元の豊前にあって、この家康陣営と三成陣営の動静を見定めていました。
三成が上杉と呼応して上方で兵を挙げると、家康らは会津から反転して三成の討伐に兵を向けました。
このとき長政は、率先して家康方の東軍へと諸将を誘導する調略を行うと同時に、関ケ原本戦でも武功を挙げています。
九州の戦い
孝高は、豊前で臨時の兵を集めて、旧領の再支配を目指して挙兵した西軍の大友義統勢と戦いました。
これを石垣原の戦いで破ると、その後も西軍に属した九州の諸城を陥落させ、立花宗茂の籠る柳川城も降伏・開城させました。
余勢を駆った孝高は、同年11月には4万の軍勢を従えて薩摩の島津氏へ兵を向けました。孝高は肥後の水俣まで侵攻しましたが、関ケ原で勝利を収めた家康は遠く薩摩までの戦をよしとせず。島津義久と和議を結びました。
このため孝高の戦いもここに終焉を迎える事になりました。
戦後家康は長政に対して、筑前国名島52万石への大幅な加増・移封を行いました。九州における貢献から孝高にも、別途の恩賞・領地を与える案が提示されましたが、孝高はこれを辞して以後は隠居生活を送ったとされています。
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隠居後の如水の生活ぶりの見事さも書いてほしかったなあと思います