戦国時代

仁科盛信 ~武田家の滅亡に殉じた信玄の五男

武田信玄の五男

仁科盛信

仁科盛信(にしなもりのぶ)は「甲斐の虎」とも呼ばれた戦国武将・武田信玄の五男にあたる人物です。

信濃の有力な国人であった仁科氏の名代を受け継いでその姓を名乗りましたが、信玄亡きあと武田家の当主となった勝頼の異母弟として、武田氏の一門武将の座を担い、最期まで主家に尽くした武将でした。

というのも信玄が没した元亀4年(1573年)以降、一時は勢力を維持できた武田家でしたが、徐々に台頭してきた織田信長によって衰退への道を歩み出した為でした。

高遠城主の兼任

仁科盛信

※高遠城 桜の季節の城門

盛信が生まれたのは弘治3年(1557年)頃と考えられています。異母兄の勝頼とは一回り離れていたようです。

盛信は当初、越後の上杉氏との国境を守る森城主を任されていました。天正3(1575)年に起こった織田・徳川連合軍との長篠の戦いに敗れた勝頼は、長年の宿敵・上杉氏と一旦講和を図り、織田氏に対する守りを強化する必要に迫られました。

このため盛信は天正9(1581)年に勝頼から、対織田の最前線となる高遠城の城主を森城と兼任する形で命じられました。

甲州征伐の開始

翌天正10年(1582年)2月に織田・徳川連合軍による武田攻めが開始されると、武田氏の配下にあった小笠原信嶺木曾義昌らが次々に離反し、木曾義昌を討つために15,000の兵を率いた勝頼でしたが果たせず逆に諏訪へと敗走しました。

続けて飯田城にあった保科正直が高遠城へと逃れたことで、大島城主であった信玄の弟・武田信廉は一戦も交えることなく甲斐へと撤退しました。

仁科盛信 の最期

同年3月1日、信長の嫡男・織田信忠を総大将とした50,000の大軍が、盛信の籠城する高遠城を包囲しました。

信忠は地元の僧を使者に立て、黄金と書状を添えて盛信に送ると開城を促しました。
このとき巷説では盛信はその申し入れを断り、使者となった僧の耳・鼻を削いで織田勢の下へ送り返したと伝えられています。

翌日には織田勢の攻城戦が開始され、盛信はわずか3,000の手勢を持ってこれに挑みました。
しかし衆寡敵せず、兵力の差は如何ともしがたくやがて城門が破られると、盛信と副将を務めた小山田昌成は自刃して果て、500名もの兵が後を追って自決したと伝えられています。

このとき盛信、享年26歳。離反が相次いだ武田勢の中にあって10倍以上の数を向こうに回しての討ち死にでした。

今も残る五郎山

この後、武田の一門衆であった穴山信君も徳川家康に通じて離反したことで、同年3月3日に勝頼は新たに築いた新府城も放棄して、岩殿城を目指して撤退しました。これに従う兵の数は既に700名弱しかいなかったとされています。

続く3月6日、信長は盛信の首実験を行った後、その首を長良川の河原に晒したといいます。。

盛信の遺体は高遠城から地元の民が探し出して荼毘にふされ埋葬されました。

その場所は盛信の幼名から「五郎山」と呼ばれて今も残されています。

武田氏の滅亡

この後、信忠の軍勢は甲府へと進みました。続く3月10日に勝頼は最後の頼みとしていた重臣の小山田信茂にも離反されてしまいます。

勝頼は残った200名弱の配下を従えて天目山へと落ち延びようとしましたが、織田勢の滝川一益河尻秀隆らの軍勢に追いつかれ、最期は自刃して果てたと伝えられています。

ここに一時は戦国最強とも称された武田氏でしたが、信玄の没後わずか9年で滅亡を迎えました。

しかし武田家に離反の連鎖を起こさせたほどの圧倒的な戦ぶりを見せた信長・信忠父子でしたが、この3ケ月後には明智光秀の謀反によって自らも淘汰される運命を辿りました。

関連記事:
山県昌景【元祖赤備えを率いた最強武将】
「不死身の鬼美濃」の異名を取った強者・馬場信春
武田信玄の命を縮めた一発の銃弾
続日本100名城 諏訪原城へ行ってみた【武田流築城術の最高傑作】
長篠城へ行ってみた【日本100名城】

アバター

swm459

投稿者の記事一覧

学生時代まではモデルガン蒐集に勤しんでいた、元ガンマニアです。
社会人になって「信長の野望」に嵌まり、すっかり戦国時代好きに。
野球はヤクルトを応援し、判官贔屓?を自称しています。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 本多忠勝はどのくらい強かったのか?【戦国最強武将】
  2. フランシスコ・ザビエル の身体は世界中に散らばっていた
  3. 毛利秀元 「徳川家康も震え上がった?天下分け目の関ヶ原合戦で見せ…
  4. 「織田信長 VS 伊賀忍者」 天正伊賀の乱について解説
  5. 伊達成実 ~突然伊達家を出奔して戻ってきた【伊達家最強武将の謎】…
  6. 吉田城へ行ってみた【続日本100名城】
  7. 足利義輝について調べてみた【武勇に優れた剣豪将軍】
  8. 引間城へ行ってみた [豊臣秀吉&徳川家康ゆかりの日本最強のパワー…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

聚楽第落首事件 「秀吉批判の落書きで関係ない町民まで皆殺し」豊臣崩壊の前兆か

秀吉を批判した落書き天正17年(1589年)2月25日、関白・豊臣秀吉が政庁兼邸宅として…

秀吉死去後、豊臣家を守り続けた加藤清正 【二条城の会見】

虎退治で名を馳せた戦国の猛将 加藤清正豊臣秀吉子飼いの武将として、天下統一を最前線で支えた。…

杉田玄白は実はオランダ語ができなかった【解体新書の翻訳者】

玄白と解体新書杉田玄白(すぎたげんぱく)は江戸時代中期の蘭方医であり、歴史の教科書にも「…

古の伝承が語る~ 体内に宿り人を操る『寄生虫』の奇怪な伝説

日本は「お魚天国」である。島国という地理的条件から、古くから魚食文化が発展し、新鮮な…

征韓論について調べてみた【西郷隆盛は違った?】

広義と狭義の征韓論「征韓論」と言えば、今日では西郷隆盛が明治新政府を下野することになった事件…

アーカイブ

PAGE TOP