豊臣秀長とは
豊臣秀長(とよとみひでなが)は、天下人・秀吉の実弟にして豊臣政権を支えた武将です。
その死がもっと遅ければ、豊臣氏のその後の運命も違っていたのではないかとさえ言われている人物です。
秀長は秀吉の異父弟(同父弟説もあり)と言われており、豊臣政権における政治の中枢を担うと同時に、軍事上でも大きな役割を果たして秀吉の天下取りに貢献しました。
諸将からの人望も厚かったとされる秀長について追っていきます。
元は長秀だった秀長
秀長は天文9年(1540年)に尾張に生まれたと伝えられており、秀吉より3歳程年下となります。
秀長が秀吉の臣下に加わった時期については定かではありませんが、永禄7年(1564年)以降とする見方が有力なようです。
天正元年(1573年)に秀吉が長浜城主となった後には、その留守時の城代も務めました。
因みににこの頃の秀長は、その名を秀吉と丹羽長秀、若しくは織田信長から一字ずつ拝借して長秀と名乗っており、後に逆にした秀長に改めたとされています。
中国攻めへの従軍
信場の命を受けた秀吉が中国地方の方面軍を任されるようになると、秀長もこれに従い山陰や但馬の支配を進めました。
天正5年(1577年)に秀吉が播磨に進出した際には、秀長もこれに従軍して竹田城を陥落させてその城代を任じられました。
天正8年(1580年)には離反した別所氏を滅ぼし、同年に秀吉勢が山名氏の支配下にあった出石城、有子山城を陥落さ山名祐豊を滅ぼして但馬の平定を終えると、秀長は出石城主を務めました。
続く翌天正9年(1581年)には毛利方の鳥取城を兵糧攻めで下し、さらに翌年には備中高松城を大掛かりな水攻めで陥落させる戦いに秀長も加わりました。
中国大返し
天正10年(1582年)6月に信長が明智光秀による本能寺の変で横死した際には、それまで対峙を続けていた毛利氏と一旦和睦し、秀吉勢の中国大返しの一員として畿内へと戻りました。
京にいおいて光秀との決戦となった山崎の合戦に臨むと、今日でも勝敗の分岐点を指し示す言葉となっている天王山を抑えて、秀吉勢の勝利に貢献しました。
翌年天正11年(1583年)には柴田勝家との賤ヶ岳の合戦にも従軍し、秀吉勢が勝利を収めたことで秀長自身も美濃守に叙され、播磨・但馬の2ヶ国を領する大名となりました。
大和大納言の敬称
秀長は、天正13年(1585年)の紀州征伐においては秀吉の甥・秀次と並んで豊臣勢の副将を務め、戦後には紀伊・和泉も所領として治める事になりました。
続いて同年6月の四国征伐では秀吉の代りとして、総勢10万を数えた豊臣勢の大将を務めました。
この四国においては戦上手の長宗我部勢に手を焼きつつも、同年8月には長宗我部氏を降伏させてそれまでの所領に大和を加えられ、計100万石を領することになりました。
ここに官位も従二位・大納言となり、以後、秀長は大和大納言の敬称で呼ばれることになりました。
天下の調整人
天正14年(1586年)に豊後の大友宗麟が島津氏の台頭に抗しきれず、秀吉への臣従と救援を請うて上洛した際には、秀吉自らが宗麟に対し「公儀の事は秀長に相談するよう」伝えたとされています。
これに天下の調整人とも呼ばれた、秀長の豊臣政権における重要度が見て取れる逸話となっています。
翌年天正15年(1587年)に行われた九州征伐では、秀長は日向方面から侵攻した豊臣勢の総大将を務め、島津氏を薩摩へ引かせて九州の平定にも貢献しました。
秀長の最期
しかし秀長は天正18年(1590年)初頭から病いを得て、同年の小田原・北条攻めには従軍出来ませんでした。
翌天正19年1月に秀長は居城・大和郡山城で享年52で病没しました。実子がなく、家督は養嗣子になっていた甥・秀保が継ぎました。
秀長自身は、秀吉の掲げた・朝鮮・明への出兵に反対していたとも伝えられており、この戦で石田三成・徳川家康の対立構造が明確になり、家康の台頭を許したことで豊臣氏の滅亡を招いたことから、秀長がもう少し長命であれば、その後の歴史も変わったいたかもしれません。
え、これだけ?
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