伊達成実とは
独眼竜・伊達政宗の右腕として活躍した武将としては、片倉小十郎が有名である。
片倉小十郎が信頼し、伊達政宗の従弟で、豊臣秀吉の下につくことを固辞、上杉景勝や徳川家康から高い禄高で請われた男が伊達成実(だてしげざね)である。
伊達政宗の命を守った伊達家一の猛将・伊達成美について追っていく。
伊達家一門の貴公子
伊達成実(だてしげざね)は永禄11年(1568年)信夫郡大森(現在の福島県福島市南部)大森城主・伊達実元の嫡男として生まれる。
成実の父・実元は伊達家14代当主・伊達稙宗の5男で、成実の母・鏡清院は伊達家15代当主・伊達晴宗の次女なので、成実は両親共に伊達家当主の一門の出である。
成実には兄弟が無く、1歳違いの従兄の伊達政宗を兄のように慕っていた。
成実は名門伊達一族の子として天流の荒川秀秋から剣術を学び、学問を了山和尚から学び、伊達一門の貴公子として育つ。
天正11年(1583年)には15歳で父・実元の後を継ぎ、翌天正12年(1584年)10月には政宗が18歳で伊達家17代当主となる。
伊達一族の若き当主となった政宗と成実は共に伊達家の命運を握ることになり、成美は政宗の父・輝宗から「政宗の右腕」として期待されていた。
伊達家一の猛将
天正13年(1585年)政宗は奥羽を制するために強硬な動きを見せる。
政宗の強硬な姿勢に反発した畠山義継が政宗の父・輝宗を捕らえてしまう。
その時、鷹狩りをしていた政宗は義継を追って父・輝宗もろとも鉄砲で撃って殺してしまった(粟之巣の変事)
この事件は政宗による父殺しの陰謀だと噂され政宗は非難を浴びるが、父の重臣たちが殉死したので政宗は伊達家の若返り化を推し進める。
強硬姿勢の政宗を支える成実たち伊達家と、それに反発した奥羽大名たちと反目する。
人取橋の戦い
父の初七日法要を済ました政宗は弔い合戦と称して、畠山氏の居城・二本松城を包囲。
二本松城救援を目的に、関東の佐竹義重が率いる約3万の南奥州諸侯連合軍と伊達軍は安達郡の人取橋で激突する。(人取橋の戦い)
伊達軍の数は約7千、雪の降る中で両軍は戦うが多勢に無勢、防戦から敗色ムードに変わり敵は政宗の首を狙ってくる。
政宗は必死に逃亡するが、身体に矢が1本と銃弾5発が命中し最大の危機を迎える。
そんな中で伊達家の家臣で老齢の鬼庭左月斎良直が、政宗から拝領した采配を握りしめて政宗を守る盾となり、壮絶な最期を迎えた。
目の前で討ち死にしていく忠臣に政宗は反撃を試みようとするが、もはや逃げる以外の選択肢は無かった。
成実も主君・政宗を逃げさせようと奮闘し、その場に留まり続けた。
そんな成実に家臣たちが「多勢に無勢、これでは本陣ももたない、ここはひとまず退却するのが得策である」と進言をする。
しかし成実は彼らの進言を無視し、大太刀を抜いて敵軍へと斬り込んで行った。
若き成実のその姿に家臣や兵士らも後に続き、その勇猛な姿に佐竹軍も一瞬ひるむ。
成実はなおも突き進み敵を倒し、その猛将ぶりは敵も味方も感嘆するほどであった。
しかし、体力の限界を迎え、もはやこれまでかと諦めかけた時に、何故か佐竹軍の兵が退き始めていった。
佐竹の領国内で不穏な動きがあり、佐竹軍は急遽撤退することとなり、伊達軍にとってはまさに奇跡が起きたのであった。
この活躍によって成実は政宗の命を救った「伊達家一の猛将」と称され、翌年には二本松城主となり38,000石へ加増された。
豊臣政権下を拒否
政宗の悲願は奥州制覇、とりわけ会津の名門、蘆名氏を攻略することであった。
会津は広大な盆地が広がる交通の要所で、奥州制覇には重要な場所だった。
成実は天正16年(1588年)の郡山合戦で、蘆名氏の攻勢をしのぎながら大内定綱を調略する。
天正17年(1589年)摺上原の戦いでは敵の側面をついて劣勢だった伊達軍の窮地を救い、この戦いで伊達家は南奥州の覇権を獲得した。
成実は政宗・片倉小十郎に次ぐ第3の将として数々の戦で活躍し、小十郎が外交面、成実が先鋒の大将といった役割を果たしていった。
秀吉の奥州仕置
その頃、豊臣秀吉が勢力を拡大しており、天正15年(1587年)関東・奥羽地方に向けて惣無事令(そうぶじれい)発令していた。
惣無事令とは大名間の私的な領土争いを禁止するもので、領土争いは豊臣政権が処理に当たり、これに違反した大名には厳しい処分を下すというものである。
これに違反した政宗に秀吉は怒り、上洛して臣下につけと脅しをかけて来た。
摺上原の戦いの最中で上洛など出来なかった政宗に、惣無事令を無視された秀吉は「会津から撤退しないと奥羽へ出兵する」と宣告。
1589年11月、さらに秀吉は「小田原の北条攻め」に全国の大名に参陣せよと命令を出した。
父・輝宗の時代から北条氏と同盟関係だった政宗は迷うが、片倉小十郎ら重臣たちは伊達家を存続させるために「小田原攻めに参陣すること」を提案する。
しかし成実だけは「せっかく奪った会津を易々手放してはなるものか!徹底抗戦だ」と反対した。
その後、政宗は小田原攻めを決意し、成実に留守を任せた。
天正18年(1590年)5月、政宗は小田原で秀吉に謁見。
秀吉に服属を誓い会津を没収されたが、家督相続時の本領72万石を安堵された。(奥州仕置)
政宗が服属して間もなく、北条氏は秀吉に降伏し、秀吉による天下統一が達成する。
突然の出奔
政宗が豊臣臣下になると、成実は二本松城主から角田城主に移封となった。
葛西大崎一揆の鎮圧や文禄の役(朝鮮出兵)にも参戦して活躍した。
文禄4年(1595年)関白・豊臣秀次が切腹させられる事件が起きた。この時、京都にいた伊達家と最上家は豊臣政権に謀反を企てていると疑われる。
この疑いは晴れたが、この事件の前後に成実は伊達家を出奔して突然高野山に向かった。
この理由は定かにされていないが幾つかの説が考察される。
・武勇の誉れ高い成実に他家から仕官の声がかかった
・成実は年上の主君・政宗に対しても容赦なく叱っていたために怒りを買った
・秀次事件での政宗の容疑を晴らすために身代わりになった
・家中での評価の割には禄高が少なかった
・家中での席次についての不満があったため(石川昭光)
秀次事件で政宗が豊臣家に対しての誓紙を差し出す時に、石川昭光の席次が成実よりも上であった。
石川昭光は政宗の叔父にあたるが、一度政宗を裏切っている人物だった。
石川家は秀吉の奥州仕置で大名から政宗の家臣として帰参。
政宗は昭光を伊達姓に復帰させ、客分として成実の上席に置いたのだ。
成実は年長者として昭光を上席に置いたことは許しても、一度裏切った者を伊達姓にすることを許さなかった。
成実の怒りを知った政宗は成実に謝り、石川姓のままにしている。
通説ではこの事件をきっかけに成実は出奔したとされている。
成実は出奔のことを国元や家臣に知らせていなかったので、角田城が接収される時には成実の家臣が抵抗して30人も殺されている。
成実は後に自分の回想録を書いているが、出奔については明らかにはしていない。
突然の帰参
秀吉の死後、徳川家康が天下取りの動きを加速させていく。
そんな家康に対して石田三成や上杉景勝は雌雄を決する戦の覚悟を決める。
慶長5年(1600年)上杉家の重臣・直江兼続が全国の諸大名に「直江状」を送ったことを発端に、家康は上杉討伐を決める。
伊達家は最上家と共に家康の命を待っていたが、西国で石田三成が挙兵。(関ヶ原の戦い)
家康軍は引き返し、奥羽の大名のみが上杉軍と戦うこととなり、北の関ヶ原こと「慶長出羽合戦」が始まった。
そんな時、政宗や伊達家にとって嬉しい出来事が起きる。
白石城攻撃に備えていた政宗は石川昭光から「目通りを願う者がいる」と人物を通され、その者を見て政宗は「藤五郎(成実)ではないか」と驚く。
片倉小十郎らの働きかけで、成実は戻って来たのだ。
しかも、出奔の間には上杉景勝から5万石での仕官の話があったが断り、家康からの誘いも断って来たという。
小十郎の計らいで成実は帰参を許されて、遺恨のあった石川昭光との仲も回復して石川軍に加わったのであった。
関ヶ原の戦いは家康率いる東軍が勝利し、成実ら伊達軍も上杉軍との慶長出羽合戦を乗り切った。
伊達家の南の要
慶長7年(1602年)成実は亘理城主となって政宗から5,095石を拝領して「伊達家の南の要」として重臣に復帰する。
伊達家の重臣として政宗の娘と家康の六男・松平忠輝との婚礼の使者を務める。
大阪の陣にも参戦し、元和8年(1622年)最上氏改易に伴う城の明け渡しなどの大役を任せられるなど政宗を支えていく。
亘理城主となった成実は治水に尽力し、5,095石だった石高を23,000石にまでにしている。
3代将軍・徳川家光の前で「人取橋の戦い」のことを語り、家光は「奥羽武士の勇猛さあっぱれ!」と成実に恩賞を与えている。
政宗から賜った茶器を毎日磨いていて、何年か経った後に政宗がその茶器を見て恩賞を与えた話なども伝わっている。
生真面目で優しく忠誠心に厚かった成実は、天保3年(1646年)政宗の死に遅れること10年、79歳で亡くなった。
おわりに
伊達成実は世継ぎに恵まれず、伊達政宗の9男を迎い入れて後継者とした。
後世の戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟として戦い敗北した仙台藩の藩士たちは賊軍とされ、屯田兵として北海道に移住した者が多かった。
その北海道開拓において強い団結力を持った一団があった。
その一団は伊達成実の真面目さ・優しさ・一本木な性格を受け継いだ子孫である、亘理伊達家の者達であった。
彼らが開拓した土地は「伊達」という名前が付けられ、東北からの移住者の成功例とされたのだ。
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