今からおよそ480年前の天文12年(1543年)8月25日、種子島に漂着したポルトガル人が日本に鉄砲が伝えた。
それから6年後の天文16年(1549年)8月、薩摩に再びヨーロッパ人が上陸した。
このヨーロッパ人こそ、日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師 フランシスコ・ザビエル である。
実はザビエルが日本に滞在したのはわずか2年半ほどである。彼は鹿児島・平戸・山口・京都・大分と移動して精力的に布教活動を続けた。
ザビエルは後に続くイエズス会の修道士たちに「日本に行く聖職者は考えも及ばないほど大きな迫害を受けなければなりません」という言葉を残している。
ザビエルが日本を後にしたおよそ12年後、宣教師 ルイス・フロイス が来日した。
フロイスは織田信長の信頼を勝ち取り、自身が亡くなるまで30年以上も日本に滞在し、布教活動を続けた人物である。
彼が残した記録「日本史」は、当時の日本の様子が詳細に綴られており、戦国時代を知る貴重な資料となっている。
ザビエルとフロイス、当時の日本は2人の宣教師の目からどう映っていたのか? 今回は前編はザビエル、後編でフロイスについて解説する。
フランシスコ・ザビエルとは
フランシスコ・ザビエルは、1506年頃にナバラ王国のハピエル城で生まれた。
地方貴族の家柄だったがナバラ王国はスペインに併合され、ザビエルは聖職者を目指した。その後ザビエルは、カトリック教会の司祭・宣教師となりイエズス会の創設メンバー7人の中の1人となった。
イエズス会は世界宣教を目指しており、ザビエルはポルトガル王ジョアン3世の依頼で、当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣された。
アンジロー(ヤジロウ)との出会い
1547年、ゴアを拠点にインド各地で宣教していたザビエルは、マレー半島のマラッカで鹿児島出身のアンジロー(ヤジロウとも)という日本人と運命的な出会いを果たす。
元武士だったアンジローは故郷である薩摩で殺人を犯し、ポルトガル船に密航してマラッカに逃亡して来た訳ありの男だった。
そしてアンジローは、犯した罪の許しを得るためにキリスト教に改宗したいと願っていた。
そんなアンジローにザビエルは「もしも私があなたと日本に行くならば、日本人は信者になるであろうか?」と尋ねた。
アンジローは「すぐには信者にはならないでしょう。色々なことを尋ねるに違いありません。あなたが優れた知恵を持っている人か試そうとするでしょう。その上で信者になるかどうか決めると思います。我々日本人は理性によってのみ判断する」と答えた。
するとザビエルは「それは素晴らしい、日本人が理性的であるならば、日本に赴くことは主なる神への大きな奉仕となるに違いない」と、日本に強い興味を抱いた。
日本人が理性で物事を判断すること、さらに日本人が単一言語であるならば、キリスト教を布教できるだろうと来日する覚悟を決めたのである。
1549年(天文18年)8月15日、ザビエルは宣教師の同志とアンジローと共に薩摩に上陸した。
薩摩に着いたザビエルたちは、アンジローを通訳として薩摩の守護大名・島津貴久に謁見した。するとあっさりとキリスト教布教の許可を得れたのである。
幸先の良いスタートを切った日本での布教に関して、ザビエルは故郷に
「この国の人々は今までの国民の中では最高であり、日本人より優れている人々は異教徒間には見いだすことはできないでしょう。彼らは善良で悪意がなく、驚くほど名誉心が強い人々で他の何よりも名誉を重んじます」
という手紙を送っている。
特にザビエルが優れていると感じたのが読み書きの能力だった。日本人は識字率が高く、祈りや教理を短時間で覚える(理解する)とザビエルは期待をした。
ザビエルたちは島津家の菩提寺の門前で布教を開始した。しかし期待したほどは信徒が集まらなかった。
その原因はアンジローの通訳だった。日本語への翻訳が不十分で誤りも多く、アンジローはキリスト教の用語を日本人にとって馴染みのある仏教用語に置き換えてしまったのである。
例えばアンジローは、キリスト教の神を、大日如来を意味する「大日」に置き換えてしまった。
そのため、日本人はキリスト教を仏教の一宗派と勘違いしてしまい、宣教師たちの宗教を「天竺宗」と呼んでしまった。
これはアンジローの無知による部分が多かったが、僧侶でもなく普通の武士だったアンジローには、このように説明することしかできなかったのである。
誤解に気付いたザビエルは神を「大日」からラテン語の「デウス」としてそのまま用い、創造主としての神を説いた上で、キリストの生涯と最後の審判を段階的に説くというやり方に変えて布教した。
ザビエルが許せなかった日本の慣習
こうして、薩摩にやって来て日本人の優秀さに感心したザビエルだったが、どうしても許せない日本の慣習があった。
それは日本の僧侶たちが「男色」を行うことであった。キリスト教では男色を罪としていたからである。
それに対して僧侶たちの中にも、異教であるザビエルたちを疎んじて嫌がらせをする者が現れ、薩摩でのキリスト教への迫害が強まってきた。
結局、島津貴久が僧侶の助言を聞き入れて禁教に傾いたため、ザビエルたちは薩摩を離れることになったのである。
(※一説には島津貴久が僧侶とザビエルたちの対立を気遣ったためとも)
各地での布教活動
ザビエルたちはアンジローを薩摩に残し、肥前国平戸に入り、布教活動を再開する。
領主の松浦隆信は宣教師たちには好意的で、平戸での布教活動を許可した。布教を認めれば南蛮船との貿易ができるのが狙いであり、鉄砲や海外の品を一早く入手するためだった。
ザビエルもその貿易を利用し、布教活動に必要な船を確保するなどしていた。
しかし平戸での布教活動も困難を極めた。子供たちが見慣れない西洋人に驚いて石を投げ、大人たちは暴力を振るう者も多かったのである。
日本での布教活動の難しさを知ったザビエルは、これから来る宣教師たちに「日本に行く聖職者は、考えも及ばないくらい大きな迫害を受けなければなりません」と伝えている。
ザビエルは更なる信者獲得と天皇へ謁見するために、山口と京都へ向かう。
天皇への謁見はザビエルの当初からの目的であったが、都は「応仁の乱」の爪跡が大きく荒れ果てたままで、天皇の力はもはやなく、しかもザビエルは天皇に献上するはずだった品々を平戸に忘れてしまっていた。
そのため謁見を断念して失意の中で山口に戻ったが、ザビエルは領主・大内義隆に珍しい献上品を与えたことで山口での布教を許され、信仰の自由を認められたのである。
ザビエルは「日本で布教をすすめるには、日本の領主たちに贈り物をして喜ばせることが必要である」と伝えている。
ザビエルは山口をキリスト教布教の拠点として、人が集まりやすい井戸端で説教をしたという。
その中で一番関心が持たれたのがキリストの物語だった。キリストが十字架にかけられる受難のくだりに多くの人が涙を流したという。
ザビエルが山口に滞在したのはわずか半年ほどだったが、500人以上の信者を獲得した。
その後、ザビエルは豊後に移動し、豊後国の守護大名・大友宗麟の保護のもとに布教を行った。
そのうちザビエルは「日本人は大陸文化の影響を強く受けているので、明にキリスト教を広めれば日本に広めやすくなるのではないか」と考えるようになった。
そこでザビエルは明でキリスト教を布教するために天文20年(1551年)一旦日本を去り、インドのゴアに戻って明に向かおうとした。
しかし明は鎖国中で入国ができず、そのまま熱病にかかってしまったのである。
ザビエルは、明の沖に浮かぶ小島・上川島で、天文21年(1552年)12月3日、志半ばでこの世を去った。(享年46)
関連記事:「外国人から見た戦国時代の日本」 ルイス・フロイス編
ザビエルって2年半しかいなかったのか?なんかもっと長くいたイメージがあったが、新しいはっけんでした