川中島の戦いの通説とは
「戦国最強」と謳われた甲斐の虎・武田信玄、「戦の天才」と謳われた越後の龍・上杉謙信、戦国を代表する最強武将の二人が12年の間に5回も激突した戦いが「川中島の戦い」である。
元々は北信濃の侵攻を目指した信玄が村上義清と抗争を繰り広げ、敗れた村上義清が越後の上杉謙信のもとに逃げ、助けを求めたことがきっかけになった。
最大の激戦となった永禄4年(1561年)の「第四次川中島の戦い」は、馬上の謙信が武田軍の本陣で信玄に斬りかかり、信玄が軍配で受け止めたとされる一騎打ちのシーンがTVドラマ・映画・小説・浄瑠璃・浮世絵・漫画など多くの作品で創作として描かれているほど有名である。
永禄7年(1564年)の「第五次川中島の戦い」は、両軍が激突することなく睨み合いで終わり双方とも勝利を宣言したが、幾つかの謎を残したまま「川中島の戦い」は今なお多くの人に語り継がれている。
今回は、武田信玄と上杉謙信の経済力に焦点を当てて「川中島の戦い」について前編と後編にわたって解説する。
信玄の経済力
信玄は幼い頃から武術・学問・軍略に才能を発揮し周囲からは「神童」と呼ばれていた。子供の時に貝合わせという遊びから「兵の数は少なくてもいかに兵を多く見せるか」ということの重要さを悟り、家臣たちを感心させたという逸話がある。
そんな信玄が暮らした甲斐は、山々に囲まれた陸の孤島で海がなく、農地も貧弱であったために物資のほとんどを他国からの輸入に頼っていた。
そこで信玄は、決して裕福とは言えない甲斐を様々なアイデアで繁栄に導いたのである。
信玄の経済力①:金山開発
信玄は甲斐の黒川金山や湯之奥金山など、10数か所の金山を保有していたという。
甲斐では砂金が大量に取れ、金山の採掘にあたる山師集団の「金山衆」は1,000人以上もいたとされている。信玄は彼らに採掘した鉱石から採れる金を加工して「碁石金(ごいしきん)」という金の粒を作らせ、甲斐の発展に役立てていた。
信玄は武器の仕入れや足利幕府との外交などに金を活用し、家臣たちの恩賞として碁石金3すくい分を与えたという。
信玄の経済力②:厳しい税制
甲斐では、税金として米(田んぼ)の面積にかける段銭(たんせん)、もう一つは家屋にかける棟別銭(むなべつせん)という二つの税金を徴収していたが、信玄は棟別銭を春と秋の年2回徴収していた。
甲斐は農地が貧弱であったために米が不作だと税収が不安定になることから、確実性の高い棟別銭を2回徴収し、安定した税収を確保していた。
また、信玄は「調べ衆」という専門の役人に家屋を1軒1軒念入りに調べさせて、厳しく税を取り立てた。
更に、この棟別銭を個人ではなく村の単位で徴収させた。
これは「甲州法度次第」という信玄が定めた分国法に規定されていた。
税金の支払いは村単位で責任を持って行われるために、もし逃げ出した領民がいれば村人が追いかけて捕まえ、もし逃げられたら村がその分を肩代わりするという厳しい取り決めがあった。
当時の戦国大名が棟別銭にこのような規定を設けることはほとんどなく、非常に珍しい制度であったという。
厳しい取り立てに度重なる増税、それに耐えきれなくなって逃げ出す人々も多かったが、それでも村単位の税金は払わなければならなかった。
村人たちは逃げ出さないように常にお互いを見張り合っていたという。
信玄の経済力③:農業の安定
甲斐(甲府)を流れる釜無川が大雨で度々氾濫し、農地が駄目になることから、信玄は氾濫を抑えるために治水工事に着手し、およそ20年もの歳月をかけて「信玄堤」という630mの堤防を造らせた。
そのおかげで米の生産が安定して領民たちの生活が守られ、農業経営が安定した。
この「信玄堤」は現代でも役に立っているのだから驚きである。
裕福ではなかった甲斐の発展は、信玄の地道な努力とアイデアによるものであった。
謙信の経済力
上杉謙信は、信玄が生まれた7年後の享禄3年(1530年)に、越後国の春日山(現在の新潟県上越市)で生まれた。
謙信は幼少の頃から暴れん坊で、手を焼いた両親は城下の林泉寺に預けた。
厳しい修行の間でも謙信は城攻め遊びに夢中になるなど、戦好きな一面を見せていたという。
謙信は生涯70戦の戦をして負けたのはたったの2回のみで「軍神」と呼ばれているが、私利私欲のための戦をしない「義に厚い武将」とも呼ばれた。
謙信の死後、居城・春日山城の金蔵で、2万7,140両を超える大金が見つかっている。
現在の価値にして約27億円である。日々戦に明け暮れた謙信は、その合戦資金をどのようにして工面していたのだろうか?
実は謙信自身は敵と戦うことで頭が一杯で、金の工面は家臣に任せっきりであったという。
謙信の家臣の中には、現在で言う財務大臣のような人物がいた。それは「金庫番」と呼ばれた蔵田五郎左衛門という男で、上杉家の経済・財政を任されていたのである。
蔵田五郎左衛門は、歴史上ほとんど知られていない人物だが、元々当時の商業流通の中枢であった伊勢神宮の神官であった。
全国を祈祷して廻っていた五郎左衛門は各地の情報に詳しく、全国各地に幅広い人脈を持っていた。
つまり、有利に商業活動が出来る基盤を持っていたのである。
そんな五郎左衛門は上杉家に仕えると、越後のある特産品に目を付けた。それは春日山城の周囲や越後国内に数多く自生していた「青苧(あおそ)」という葉であった。
この「青苧」が繊維となり戦国時代の衣料の原料(麻)となって、謙信の重要な財源となったのである。
謙信の経済力①:青苧
当時の越後は湿地帯が広がり、洪水が頻発したために農業生産力は低く、米などはほとんど収穫出来なかった。
現在、越後(新潟県)は米どころとなっているが、当時は米の収穫量は少なかったのである。
青苧は、多雨で湿度が高い土地を好み、越後は上質な青苧が育つのにとても向いている土地であった。
青苧は麻の衣料の原料として古くから使われ、刈り取りにも強く、地下茎を取り除かなければすぐに生え、一冬越してもまた自生する植物である。
戦国時代にはまだ木綿がなく、青苧はとても重宝され、高値で取引されていた。
「越後上布」という高級な麻の着物の原料として使われ、夏用の織物として軽くて爽やかな着心地だったという。
越後産の青苧は評判となり、越後の直江津港と柏崎港には全国から青苧を買い求める船が集った。
そして五郎左衛門は、更なる施策に打って出たのである。
謙信の経済力②:税金
五郎左衛門は、越後産の青苧を買い求めるために直江津港や柏崎港にやって来た船に入港税をかけ、年間4万貫もの入港税を徴収した。
次に越後の各関所において、青苧の輸出関税として馬一頭が運べる量ごとに20文(現在の価値で1,000円)を関税として取り立てた。
これらの経済効果は、何と現在の価値にして年間50億円以上にもなったという。
また、越後には金山・銀山が4か所ほどあり、そこからも収入を得ていた。
五郎左衛門は謙信の金庫番だけではなく、「川中島の戦い」の際には謙信に代わって春日山城の留守居役を任され、謙信の関東在陣中には春日山城を守ったという。
敵に塩を送る
信玄のいる甲斐は海に面していないために東海地方から塩を輸入していたが、そこに目をつけた駿河の今川氏真と関東の北条氏康が手を組み、甲斐への塩の販売を禁止する戦略を実行した。
困り果てた信玄のもとにライバルである謙信から「弓矢で戦うことこそ我が本分、幾らでも越後から塩を買ったらいい」と、塩を適正な価格で販売するという申し出があった。
これは「敵に塩を送る」ということわざの語源とされている。
この時に謙信の命を受け信玄のもとに塩を手配したのが、五郎左衛門であった。
五郎左衛門に任せておけば何でもそつなくこなしてくれると、謙信はとても頼りにしていた。
謙信が生涯70回もの合戦に専念出来たのも、裏でその資金を用立てた蔵田五郎左衛門がいたおかげである。
後編では、経済的な視点から見た「川中島の戦い」の真実について解説する。
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