三好長慶と足利義輝
三好長慶(みよしながよし)とは、戦国の覇王・織田信長よりも20年も早く、時の室町幕府第13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)を都から追い出して畿内をほぼ統一し「三好政権」を樹立した戦国武将である。
幼い頃、策謀によって父が自害に追い込まれた長慶は、父の敵である幕府の管領で主君の細川晴元を討つ決意を密かに固める。
三好家の立て直しと父の敵討ちの準備を進める長慶は、当時としては改革的な人材活用を行い、各地に力を持つ寺社を保護し、そのネットワークを活用して東アジア貿易のルートを確保した。
こうして着々と力をつけた長慶は、父の敵討ちをいよいよ実行に移す。
劣勢になった細川晴元は都を脱出するが、なんとこの時14歳であった将軍・足利義輝を一緒に連れて逃亡したのである。
その結果、長慶は将軍・義輝と対立することになってしまい、長い抗争が始まることとなる。
今回は、三好長慶 vs 将軍・足利義輝の抗争について、前編と後編にわたって解説する。
長慶の出自と父の死
三好長慶は、大永2年(1522年)室町幕府の管領・細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として阿波国三好郡で生まれた。
幼名は「千熊丸」、その後「利長・範長」と名を代えて「長慶」となるが、ここでは一般的に知られる「長慶または三好長慶」と記させていただく。
父・元長は主君・細川晴元の敵であった細川高国を滅ぼした功労者であり、次第に勢力を拡大していった。
この時、三好家の一族である三好政長が晴元にありもしない讒言をしたことで、晴元は元長に対して謀反の疑いを持ち、享禄5年(1532年)6月、父・元長は自害に追い込まれてしまう。
こうしてわずか11歳で、長慶は三好家の家督を継ぐことになった。
長慶の先進性
三好家の大黒柱を失った長慶は、当時住んでいた堺から阿波国に逃亡した。
しかし長慶は、父の敵(かたき)である細川晴元に仕え続けること以外に道はなかった。
長慶に転機が訪れたのは18歳の時である。現在の兵庫県西宮市にあった越水城主となったのである。
この城で長慶は、三好家の立て直しと父の敵討ちのために改革に乗り出していった。
父の死に伴って多くの家臣たちを失っていたので、長慶は大胆な人材登用を行ない、身分や家柄に取らわれずに幅広い中から優秀な人材を取り立てていった。
この時、土豪出身の松永久秀などが召し抱えられている。
召し抱えられた者たちは、長慶の家臣団の中核として活躍していくこととなる。
また、長慶は統治者としての才能を開花させ、現在の兵庫県尼崎市にある法華宗の大本山・本興寺と「禁制」という取り決めを交わしている。
これは、三好の軍勢が本興寺に対して狼藉を働かないことや、本興寺の断り無しに家を建てないことなどが記されていた。
法華宗の大本山である本興寺は、西日本にネットワークを持つ「末寺」と呼ばれる寺に影響力を持っていた。
本興寺の自治を認めたことで、長慶はそのネットワークとパイプを結んだ。彼らは独自に東アジアの国との海外貿易を行なっていた。
こうして長慶は、東アジアを結ぶ貿易ルートを確保することができ、この交易によって鉄砲などの武器を入手したのである。
つまり長慶は、信長よりも先に実力主義の人材登用と南蛮貿易につながる経済的活動など、当時としては先進的・革新的な行動をしていたのである。
そして父の敵(かたき)細川晴元の打倒の機が、ついに熟すこととなる。
VS 細川晴元
天文18年(1549年)長慶は主君である細川晴元に決戦を挑み、細川の拠点である江口に攻撃し大勝利を収める。
しかし、肝心の晴元は京を脱出していた。
ところがこの時、思わぬ事態が起きていたのである。
何と晴元が当時14歳であった将軍・足利義輝を連れて逃亡していたのだ。
足利将軍家は細川晴元と連携しており、将軍・義輝も晴元について行かざるを得なかったのである。
結果的に長慶は思わぬ形で将軍・義輝に刃を向ける形となり、対立する形となった。
それが長い抗争へと繋がっていくのである。
VS 足利義輝
室町幕府第13代将軍・足利義輝は、長慶に都を追われた当時、まだ14歳であった。
義輝の母は近衛家の娘であり、義輝は室町幕府始まって以来の高貴な血筋であり、周囲の幕府再建への期待も大きく、義輝本人もそのことを十分に自覚していた。
だが、都を追われた翌年に父の義晴が無念を抱えたまま病死した。若くして将軍に就任した義輝だが、その後、家臣である長慶に攻められて京の都を追われてしまう。
父を失うという状況の中で、義輝の長慶に対する憎悪は日に日に増していったのである。
暗殺計画
長慶軍に対抗する独自の兵力を有していない義輝は、長慶の暗殺を試みて刺客を送っている。
1度目は、長慶の屋敷に火を放とうとしたが失敗に終わり、2度目は宴会中の長慶を刺客に襲わせたが、手傷を負わせただけでこれも失敗に終わる。
その後も義輝は刺客を放っていたが、これが功を奏したのが長慶の岳父・遊佐長教が殺害される事件が発生する。
血生臭い緊張状態になったが、長慶は辛うじて逃れていた。
和睦
さすがにこの状態を憂いた室町幕府の重臣・六角氏が両者の和睦の仲介に動き出した。
これを受けて長慶は義輝との和睦を受け入れたが、長慶が出した和睦の条件は「将軍・義輝の帰京は認めるが、その代わり細川晴元を幕政から排除すること、そして長慶自身が将軍の直臣となること」であった。
この時点での長慶は、混乱の火種であった細川家の分裂争いを解消し、三好家が将軍を支えていくという考えがあった。
そして、細川晴元は細川氏綱に家督を譲って出家することになった。
天文21年(1552年)義輝と長慶の和睦が成立して義輝は上洛し、長慶は上洛して御供衆の格式を与えられ、細川家の家臣から将軍家の直臣になった。
こうして室町幕府は将軍・義輝、管領は細川家の当主・細川氏綱、実権を握る実力者・三好長慶という構図になったのである。
義輝と晴元の挙兵
再び京の都に戻った義輝は、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)、山陰の尼子晴久、越前の朝倉義景など、地方で台頭してきた大名たちへ「栄典」を授与した。
将軍・義輝は、実力がある新興勢力の大名を取り込んで味方にしようとしたのである。
彼らは下剋上で台頭してきた者たちだったが、これは将軍自らが下剋上にお墨付きを与えるような矛盾した状況となった。
長慶はこの行為を「それまでの身分秩序を否定すること、幕府の存在意義さえも否定することにつながりかねない」と批判した。
室町幕府再建に向けて歩み出した長慶と義輝だったが、両者の平穏は一時的なものに過ぎなかったのである。
こうして一旦は和睦した両者だったが、将軍の直臣となった長慶の力が増すと共に、成り上がり者の長慶を良く思わない反三好派が将軍・義輝に接近していった。
しかもその中の1人が返り咲きを望む、あの細川晴元であった。
こうした状況の中、義輝は今まで支えてくれた晴元と再び連携することを考えるようになってしまった。
そして天文22年(1553年)将軍・義輝と細川晴元は挙兵し、京の霊山城に立て籠った。
しかも義輝は長慶を将軍に刃を向ける「御敵」として、各勢力に「長慶を打倒せよ!」と呼びかけたのである。
長慶挙兵
長慶もこれに対して挙兵し、2万5,000の大軍で義輝が籠城する霊山城を包囲した。
この時、義輝の期待に反して、畿内や諸国の大名たちは義輝方に軍勢を送ることは全くなかった。
しかも、義輝にとってまさかの事態が起きた。
長慶の大軍に怯えた細川晴元が、なんと一戦も交えずに逃亡したのである。
孤立無援の状態になった義輝は、再び近江へと落ち延びることを余儀なくされる。
こうして京の都はまた将軍が不在となったのであった。
長慶の選択
再び将軍不在となったことで、長慶は自分の思いはもう義輝には届かないと実感し「ならば新たな将軍を擁立しよう」と考えた。
義輝の叔父・足利義維を将軍に据えるのが得策と考えたが、足利義維を擁立すれば、義維を嫌っている六角氏や畠山氏と敵対することは必至であった。
そして再び戦乱の世になるのであれば「自らが将軍・義輝に代わって政権を握り政事を行なう方が良いのではないだろうか?」と考え始めたのである。j
当時の長慶の力であれば、それも十分可能であった。
長慶は究極の選択に迫られたのである。
後編では三好長慶政権樹立と、その最後について解説する。
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参考文献 : 三好長慶 単行本
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