武田信玄の死因
群雄割拠の戦国の世において最強と謳われた甲斐の虎・武田信玄(たけだしんげん)。
ライバル・上杉謙信と5度に渡った「川中島の戦い」は戦国時代を代表する名勝負と言われている。
甲斐・信濃・駿河・美濃・飛騨と領土を拡大した信玄は、西上作戦でいよいよ天下取りに動き出す。しかし織田信長と直接対決する矢先に病に倒れ、そのまま回復することなく天下取りを目前にして53年の生涯を終えた。
信玄は晩年吐血を繰り返しており、結核だったとされてきた。
しかし結核であれば周りに感染するはずであり、周囲には目立った感染者はいなかったので結核では無かったという説もある。
信玄は胃潰瘍だった?
信玄はストレスによる胃潰瘍だったとも考えられている。
「甲陽軍鑑」によると「信玄は非常に行儀が良く細かいことに気を配り過ぎるので、もっと心穏やかにのんびりとした方が良い」といった旨の記述がある。
真面目で几帳面だった信玄は、ストレスを感じやすかったと思われる。
信玄の大きなストレスの要因としては、不遇な運命となった息子たちの存在が考えられる。
信玄には7人の男子がいたが、嫡男・義信は信玄の命令に背いて2年間の幽閉の後に自害。
次男・竜芳は生まれつき視覚障害があり、三男・信之は11歳で亡くなっていた。
信玄はやむなく四男・勝頼を後継者に定めたが、実はその能力をあまり認めていなかったという説がある。
信玄は遺言で「勝頼の嫡子・信勝が16歳になったら正式に武田家を継がせる」と言っている。
つまり四男・勝頼は正式な後継者というより、信勝が16歳(成人)になるまでの後見役のような形だった可能性がある。信玄は勝頼では織田信長や徳川家康には勝てないと考えていたのだ。
他に、信玄は「温泉」に足繁く通っていたことは有名である。信玄の隠し湯と言われる温泉が数多くあった。
また、6畳ほどの信玄専用のトイレを作り、その中には常に香炉が置かれていた。信玄はこのトイレで戦の作戦を考えていたという。
こういったことからも、信玄が普段の生活環境に気を使い、とても繊細な性格だったことがうかがえる。
戦のストレス
1571年、信玄のもとに将軍・足利義昭から信長討伐の御内書が届いた。
信長討伐の大義名分を得た信玄は「今こそ天下取りの好機である」と全軍を率いて出陣した。
信玄は立ちふさがる信長軍を蹴散らし、三方ヶ原の戦いでは信長と同盟を結んでいた徳川家康軍に圧勝する。
初めての大敗を喫した家康は命からがら敗走している。
残すは信長のみ、信玄は意気揚々と兵を整備していたが、信長を挟み撃ちにしようと同盟を結んでいた朝倉義景が突如兵を引いてしまった。
これにより信長包囲網が崩れ、信長を討つ最大のチャンスを逸してしまったのである。
戦はただでさえ心身に負担がかかるものだが、当時の信玄はさらに大きなストレスを受けたであろう。
そのまま胃潰瘍が悪化し、出血し亡くなったという。
※信玄の他の死因としては「胃がん」「食道がん」という説もあり、近年の研究では「日本住血吸虫症」という寄生虫によって起きた病気だという説もある。
信玄の死の知らせを聞いた食事中の上杉謙信は「英雄・人傑とは信玄のことだ。関東の弓矢・柱亡くなり、惜しきことなり」と箸を落として号泣したという。
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