戦国の世には三傑、五奉行、七本槍など様々な名数が登場するが、その中でも多いのが『四天王』だ。
戦国時代の四天王を軽く紹介するだけでも、織田四天王・徳川四天王・武田四天王など多く存在する。
近年、ネット上など巷で話題になっているのは『戦国DQN四天王』である。
今回は、この『戦国DQN四天王』について詳しく解説しつつ、なぜそんな呼ばれ方をしているのかも見ていこう。
戦国DQN四天王って誰のこと?
戦国DQN四天王とは「一般の感覚から著しくズレている者」であり、中でも飛び抜けている者たちである。
それではメンバーを紹介しよう。
彼らがやったことを列挙すると凄まじい内容ばかりなので、その中でも特に酷い逸話をいくつか抜粋して紹介していこう。
伊達政宗のDQN行動
もはや説明いらずの有名人である伊達政宗だが、いろいろと過激なエピソードがある。
具体的なDQNエピソードを紹介しよう。
・容姿のせいで親が出ていったとされているが、実は政宗の性格や行動があまりにも過激で逃げていったという説がある。
・伊達家の家宝の茶器を落としそうになったが、自分をヒヤッとさせたことに苛ついて叩き割る。
・同じように、他人の高価な茶器をたたき割る。
・島津氏の史料『薩藩旧記雑録』によれば、大坂夏の陣で味方だった神保相茂が政宗にとっては邪魔だったようで、後方から一斉射撃して壊滅させる。神保相茂も死亡。
・800人を撫で斬りしたという『小手森城皆殺し事件』は、政宗自身が書いた手紙から広がった逸話であるが、送り先の相手によって「200人以上」としたり「正確な数はわからない」としたりコロコロ変わっている。つまり政宗の情報操作だったが、こんな過激な情報操作を平然とすること事態がDQNである。
森⾧可のDQN行動
伊達政宗と比べると知名度的に少し落ちるので、簡単な解説を入れる。
○森⾧可(もりながよし)
生誕 : 1558年
死没 : 1584年5月18日
別名 : ⿁武蔵・夜叉武蔵
父 : 森可成
主君 : 織田信⾧ → 羽柴秀吉
森⾧可は、織田信⾧の家臣であった森可成の子供であり、その後、秀吉にも仕えている。
1570年に父と兄が死亡したことで、13歳で家督を継ぎ、武勇に優れていたことから将来を嘱望されていた。
しかし、気性が荒く強すぎたが故に、多くの過激な逸話がある。
・一揆衆に一人で突撃し、二十数人を討ち取る。
・織田家臣団の他の奉公人を、些細なことで怒りに任せて槍で突き殺す。
・関所で自分を止めた役人を殺し、後に放火する。
・戦では大活躍するも命令違反や軍規違反を犯す常習犯だった。しかし信⾧から気に入られており軽い処分のみだった。
27歳という若さで亡くなっており、もっと⾧生きしたらさらに多くの逸話が生まれていただろう。
細川忠興のDQN行動
細川忠興は、光秀の三女の玉子(ガラシャ)と結婚した人物である。
家臣が記した伝書に「忠興は天下一気が短い人物だ」と書かれていたことでも有名である。
○細川忠興(ほそかわ ただおき)
生誕 : 1563年11月28日
死没 : 1646年1月18日
別名 : 与一郎、丹後宰相
父 : 細川藤孝
主君 : 織田信⾧・信忠 → 豊臣秀吉 → 秀頼 → 徳川家康 → 秀忠
足利義輝に仕えた細川藤孝(幽斎)の⾧男であり、後に徳川に仕えている。
細川忠興の過激な逸話は、主に妻・ガラシャ関係である。
・既に降伏して敗残兵となった敵を皆殺しにして、明智光秀から注意される。
・些細な失敗をした部下をガラシャが庇うと、なぜかその行動に嫉妬してその部下を殺す。
・ガラシャの美しさに見とれていた庭師を斬り殺す。
・ガラシャと侍女がキリシタンになったことに激怒し、誘った待女の鼻を削ぐ。
・ガラシャに「人質になるぐらいなら自害しろ」と命じるが、自分以外の男に何かされるのが許せないという理由だった。
・実際にガラシャは自殺することになるが、その事実を許せず、⾧男の忠隆に全責任を押し付けてなぜか廃嫡する。
・関ヶ原の戦いでは、ガラシャを失った悲しみで半狂乱になっており、敵味方関係なく襲いかかり、恐怖の対象になる。
ただでさえ気が短い男が、ガラシャが絡むことでさらに強力になるのである。部下は相当気を使っていたことだろう。
島津忠恒のDQN行動
島津忠恒(しまづ ただつね)は、関ヶ原の戦いにおける「島津の退き口」で有名な、島津義弘の三男である。
後に島津家久に改名している。
○島津忠恒
生誕 : 1576年11月27日
死没 : 1638年4月7日
別名 : 又八郎、薩摩少将
父 : 島津義弘
主君 : 島津義久 → 豊臣秀吉 → 秀頼 → 徳川家康 → 秀忠 → 家光
それでは忠恒の逸話を紹介しよう。
・子供の頃から蹴鞠と酒色に溺れる日々を送り、度々島津義弘から注意される。
・ダメ息子のように見えたが、島津家の血を引いているので武勇に優れており、朝鮮出兵では大活躍する。
・しかし、性格が粗暴すぎたため、部下や雑兵の一部が朝鮮側に逃げる。
・家督を継ぐことになるが、その後、なぜか家老の伊集院忠棟を斬り殺す。
・伊集院忠棟の子の忠真が反乱を起こす。その後、和睦するが、忠真とその供回りを狩りに招いて射殺する。
・跡目相続で揉めた時にも、家老の平田増宗を暗殺する。
自分にとって邪魔と判断した家老や家臣を次々と抹殺しており、まるで『戦国時代の司馬炎』である。
最後に
現代と昔では感覚や常識はまるで違っていただろう。しかし当時の人たちから見ても、この4人は異常に見えたようである。
もし同じ時代を生きていたら、絶対に近寄りたくない4人である。
参考 : 『薩藩旧記雑録』『伊達政宗の戦闘部隊 戦う百姓たちの合戦史 (歴史新書)』
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