戦国時代

戦国時代の行動が過激すぎるDQN四天王 ~「カッとなるとすぐ殺す」

戦国時代の行動が過激すぎるDQN四天王
戦国の世には三傑、五奉行、七本槍など様々な名数が登場するが、その中でも多いのが『四天王』だ。

戦国時代の四天王を軽く紹介するだけでも、織田四天王・徳川四天王・武田四天王など多く存在する。

近年、ネット上など巷で話題になっているのは『戦国DQN四天王』である。

今回は、この『戦国DQN四天王』について詳しく解説しつつ、なぜそんな呼ばれ方をしているのかも見ていこう。

戦国DQN四天王って誰のこと?

戦国DQN四天王とは「一般の感覚から著しくズレている者」であり、中でも飛び抜けている者たちである。

それではメンバーを紹介しよう。

伊達政宗(奥州の暴れん坊)
○森⾧可(狂犬)
細川忠興(暴走野郎)
○島津忠恒(The 卑怯者)

彼らがやったことを列挙すると凄まじい内容ばかりなので、その中でも特に酷い逸話をいくつか抜粋して紹介していこう。

伊達政宗のDQN行動

戦国時代の行動が過激すぎるDQN四天王

画像:伊達政宗 肖像画。土佐光貞 (1738 – 1806) 筆。東福寺・霊源院所蔵 public domain

もはや説明いらずの有名人である伊達政宗だが、いろいろと過激なエピソードがある。

具体的なDQNエピソードを紹介しよう。

・容姿のせいで親が出ていったとされているが、実は政宗の性格や行動があまりにも過激で逃げていったという説がある。

・伊達家の家宝の茶器を落としそうになったが、自分をヒヤッとさせたことに苛ついて叩き割る。

・同じように、他人の高価な茶器をたたき割る。

・島津氏の史料『薩藩旧記雑録』によれば、大坂夏の陣で味方だった神保相茂が政宗にとっては邪魔だったようで、後方から一斉射撃して壊滅させる。神保相茂も死亡。

・800人を撫で斬りしたという『小手森城皆殺し事件』は、政宗自身が書いた手紙から広がった逸話であるが、送り先の相手によって「200人以上」としたり「正確な数はわからない」としたりコロコロ変わっている。つまり政宗の情報操作だったが、こんな過激な情報操作を平然とすること事態がDQNである。

森⾧可のDQN行動

画像 : 森長可 public domain

伊達政宗と比べると知名度的に少し落ちるので、簡単な解説を入れる。

○森⾧可(もりながよし)
生誕 : 1558年
死没 : 1584年5月18日
別名 : ⿁武蔵・夜叉武蔵
: 森可成
主君 : 織田信⾧ → 羽柴秀吉

森⾧可は、織田信⾧の家臣であった森可成の子供であり、その後、秀吉にも仕えている。
1570年に父と兄が死亡したことで、13歳で家督を継ぎ、武勇に優れていたことから将来を嘱望されていた。
しかし、気性が荒く強すぎたが故に、多くの過激な逸話がある。

・一揆衆に一人で突撃し、二十数人を討ち取る。

・織田家臣団の他の奉公人を、些細なことで怒りに任せて槍で突き殺す。

・関所で自分を止めた役人を殺し、後に放火する。

・戦では大活躍するも命令違反や軍規違反を犯す常習犯だった。しかし信⾧から気に入られており軽い処分のみだった。

27歳という若さで亡くなっており、もっと⾧生きしたらさらに多くの逸話が生まれていただろう。

細川忠興のDQN行動

戦国時代の行動が過激すぎるDQN四天王

画像 : 細川忠興 public domain

細川忠興は、光秀の三女の玉子(ガラシャ)と結婚した人物である。

家臣が記した伝書に「忠興は天下一気が短い人物だ」と書かれていたことでも有名である。

○細川忠興(ほそかわ ただおき)
生誕 : 1563年11月28日
死没 : 1646年1月18日
別名 : 与一郎、丹後宰相
: 細川藤孝
主君 : 織田信⾧・信忠 → 豊臣秀吉 → 秀頼 → 徳川家康 → 秀忠

足利義輝に仕えた細川藤孝(幽斎)の⾧男であり、後に徳川に仕えている。

細川忠興の過激な逸話は、主に妻・ガラシャ関係である。

・既に降伏して敗残兵となった敵を皆殺しにして、明智光秀から注意される。

・些細な失敗をした部下をガラシャが庇うと、なぜかその行動に嫉妬してその部下を殺す。

・ガラシャの美しさに見とれていた庭師を斬り殺す。

・ガラシャと侍女がキリシタンになったことに激怒し、誘った待女の鼻を削ぐ。

・ガラシャに「人質になるぐらいなら自害しろ」と命じるが、自分以外の男に何かされるのが許せないという理由だった。

・実際にガラシャは自殺することになるが、その事実を許せず、⾧男の忠隆に全責任を押し付けてなぜか廃嫡する。

・関ヶ原の戦いでは、ガラシャを失った悲しみで半狂乱になっており、敵味方関係なく襲いかかり、恐怖の対象になる。

ただでさえ気が短い男が、ガラシャが絡むことでさらに強力になるのである。部下は相当気を使っていたことだろう。

島津忠恒のDQN行動

画像 : 島津忠恒(家久)肖像画 public domain

島津忠恒(しまづ ただつね)は、関ヶ原の戦いにおける「島津の退き口」で有名な、島津義弘の三男である。

後に島津家久に改名している。

○島津忠恒
生誕 : 1576年11月27日
死没 : 1638年4月7日
別名 : 又八郎、薩摩少将
: 島津義弘
主君 : 島津義久 → 豊臣秀吉 → 秀頼 → 徳川家康 → 秀忠 → 家光

それでは忠恒の逸話を紹介しよう。

・子供の頃から蹴鞠と酒色に溺れる日々を送り、度々島津義弘から注意される。

・ダメ息子のように見えたが、島津家の血を引いているので武勇に優れており、朝鮮出兵では大活躍する。

・しかし、性格が粗暴すぎたため、部下や雑兵の一部が朝鮮側に逃げる。

・家督を継ぐことになるが、その後、なぜか家老の伊集院忠棟を斬り殺す。

・伊集院忠棟の子の忠真が反乱を起こす。その後、和睦するが、忠真とその供回りを狩りに招いて射殺する。

・跡目相続で揉めた時にも、家老の平田増宗を暗殺する。

自分にとって邪魔と判断した家老や家臣を次々と抹殺しており、まるで『戦国時代の司馬炎』である。

最後に

現代と昔では感覚や常識はまるで違っていただろう。しかし当時の人たちから見ても、この4人は異常に見えたようである。

もし同じ時代を生きていたら、絶対に近寄りたくない4人である。

参考 : 『薩藩旧記雑録』『伊達政宗の戦闘部隊 戦う百姓たちの合戦史 (歴史新書)』

 

アバター

草の実堂編集部

投稿者の記事一覧

草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く
Audible で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 藤堂高虎はなぜ7回も主君を変えたのか調べてみた
  2. 「鬼島津」島津義弘、その壮絶なる退き口と死闘の人生
  3. 松永久秀 【天下の悪人と信長に言わしめた梟雄】
  4. 上杉憲政について調べてみた【上杉謙信を誕生させた大名】
  5. 天狗と呼ばれた剣豪・斎藤伝鬼房
  6. 斎藤道三の成り上がりの生涯【最後は息子に殺された下剋上大名】
  7. 柴田勝家とは 〜鬼柴田と呼ばれるも温情深い猛将
  8. 【戦国史上最悪の籠城戦】 秀吉の鳥取城渇え殺し 〜「死肉を奪い合…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

「加賀の平賀源内」と称された天才からくり師・大野弁吉の生涯

大野弁吉とは大野弁吉(おおのべんきち)とは、江戸時代後期に加賀前田藩百万国の中心地・金沢…

関羽の娘「関 銀屏」は実在したのか? 「ゲームでブレイクした軍神の娘」

正史にも演義にも登場しない軍神の娘筆者が「彼女」の存在を知ったのはいつだろうか。…

金のために祖国を売ったCIA職員・オルドリッチ・エイムズ 【日曜劇場『VIVANT』に関連して】

日曜劇場『VIVANT』第7話が先日放送されました。『別班』だった乃木(堺雅人)が、国を裏切…

ヨーロッパ・ブラッドスポーツ残酷史 後編【スポーツという名の動物いじめは人間にまで!?】

はじめに前回はかつてヨーロッパで行われた一部のブラッドスポーツに関してご紹介しましたが、今回も引…

【女装したスパイ】 シュヴァリエ・デオンの異色の人生 「フランスとロシアを繋いだ男」

18世紀のヨーロッパは、各国が自国の利益確保と領土拡大に熱心な時代でした。そんな時代…

アーカイブ

PAGE TOP