「日本三大○○」という言葉はよく耳にするが、戦国時代が好きな人にとっての「三大○○」とは何だろうか。
筆者としては日本三大奇襲(日本三大夜戦)を推す。
今回は、この日本三大奇襲(日本三大夜戦)の一つでありながらも、知名度的にはあまり高くない『河越城の戦い』について分かりやすく解説したい。
河越城の戦いの概要
河越城の戦いの概要は以下である。
名称:河越城(かわごえじょうのたたかい)の戦い(河越夜戦)
年月日:1546年
場所:武蔵国河越城(埼玉県川越市)
交戦勢力:北条軍 vs 山内上杉家・扇谷上杉家・足利古河公方連合軍
主な参戦武将:
○北条軍:北条氏康・北条綱成・北条長綱・大道寺盛昌・北条綱房・北条幻庵
○山内上杉家・扇谷上杉家・足利古河公方連合軍:上杉憲政・上杉朝定・上田朝直・足利晴氏・関東諸将
軍団規模:北条軍1万3千(城内3千)vs 山内上杉家・扇谷上杉家・足利古河公方連合軍1万〜8万(諸説あり)
結果:北条軍圧勝し関東での地位完全確保、扇谷上杉の滅亡、山内上杉家・古河公方・関東管領家の弱体化
この河越城の戦いは、前述したとおり「日本三大奇襲(日本三大夜戦)」と言われているが、その他の『厳島の戦い』『桶狭間の戦い』と比べると史料が少ないことから、諸説ある戦いとなってしまっている。
顕著なのが山内上杉家ら連合軍側の兵士の数で、1万程度という説もあれば8万を超えていたという説もあり、大幅なブレがあるのだ。
さらには、合戦の存在自体を否定する説もある。
しかしこの戦い以降、山内上杉家が急速に衰退したことと、足利古河公方の権力が一気に低下したのは事実である。
それ相応の戦いや何かがあったことは間違いないだろう。
河越城の戦いは、どのような奇襲だったのか
この奇襲が、どういった過程で行われたのかを簡単にまとめる。
諸説ある戦いのため、あくまで通説を元に解説する。
① 山内上杉家・扇谷上杉家・足利古河公方が三つ巴の戦いをしている時に、北条家が勢いを増していく。
② 1537年、扇谷上杉氏の居城・河越城に、北条氏康の父・氏綱が攻撃を仕掛けて城を奪い取る。
③ 北条家はそのまま扇谷上杉家を滅亡寸前まで追いつめたが、1541年に北条氏綱が没する。
④ 北条氏康が20代中頃で家督を継ぐが、それを好機と見た山内上杉家・扇谷上杉家・足利古河公方が手を組み、北条打倒のために動く。
⑤ 山内上杉家・扇谷上杉家・足利古河公方の連合軍は、他の北条家の敵対勢力も味方につけ、さらには今川義元も引き込む。
⑥ 山内上杉家・扇谷上杉家・足利古河公方と関東諸将は河越城を包囲し、さらに西からは今川義元が攻め込み、挟み撃ちにする(この河越城包囲の人数は先述したとおり、1~8万人と正確な数は不明)
⑦ 河越城は北条綱成が3千で守り、氏康は西から進軍してきた今川義元と相対する。
⑧ 氏康は、領地の一部割譲などの条件をつけて武田晴信(信玄)の斡旋で、今川義元と和睦する。
⑨ 河越城は包囲されながらも攻め落とされることなく、半年以上膠着状態となる。
⑩ 1546年4月、いよいよ氏康もこの包囲に攻撃を仕掛けるが「仕掛けるふりをして逃げる」という行為を何度も繰り返し、連合軍側に『北条氏康と北条軍はふぬけである』と思わせる。
⑪ 連合軍側が油断しきったところで、氏康は包囲網を打ち破るために夜襲を仕掛けて大成功する。この時、敵味方の区別がつくように全軍に白い紙の羽織を着せて『首は打ち捨てにすべし』という命令を出していた。
⑫ この混乱を察した河越城の守将・北条綱成は、城兵3千を率いて出陣し、連合軍側に攻め込む。
⑬ 連合軍側は扇谷上杉氏・当主の戦死を含め大打撃を負い、北条家は関東での確固たる地位を手に入れる。
ポイントとなるのは、やはり北条氏康の戦術だろう。
長期戦となり、敵の士気が低下したところでさらに「北条軍はふぬけ」と思わせ、一気に夜襲を仕掛けている。
その夜襲で隙ができたところに、武勇に優れる北条綱成が突撃してきたら、敵は生きた心地がしなかったであろう。
損害についても諸説あるが、北条側は戦死者が100人程度、連合軍側は1万3千人もの死傷者を出したと言われている。
討ち取られた武将の数や死傷者の数を見ても、北条側が完勝した戦いと言えるだろう。
この戦いの過程が事実ならば、日本三大奇襲(日本三大夜戦)の一つとされるのも納得の大逆転劇である。
参考 : 「川越市史」
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